「風信子」 (ひやしんす) で考える ── 日本語が先か、中国語が先か ――2。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

     パンダ こちらは 「後編」 のアタマでがす。「前編」 は ↓ でがす。

        http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10157654260.html





〓でですね、ギリシャ語の Παρθένος Parthenos [ パル ' てノス ] 「処女」 をラテン語に写したものが、

   Virgo [ ' ウィルゴー ] 「処女」 → 「処女宮」 (しょじょきゅう)


となるわけです。英語の発音だと、


   Virgo [ 'vɚˌgoʊ ] [ ' ヴァー , ゴウ ] <米音>


ですね。


〓なんか、この 「乙女座」 を意味する Virgo が、英語の virgin とビミョーに関係あるような、ないような語形なのが気になっているヒトも多いでガショウ。

〓ここには、もちろん、言語学的カラクリがありやす。



〓ラテン語では、語根が -ōn, -in に終わる単語の場合、主格が、語根どおりの語形にならないのです。おそらく、有史前からラテン語を話してきたヒトたちが、


   単語の末尾が -ōn, -in で終わるのを嫌うようになった


からでしょう。この2種類の語根を持つ単語の主格は、理論上、主格語尾も含めて、


   -ōns, -ins となってしかるべき


なのですが、ラテン語には、こんな音で終わる単語が許されないのです。実際には、これは、どちらも、


    で終わる    ※ただし、固有名詞など、ギリシャ語からの借用語では -ōn となる語が多い。


ことになってます。たとえば、



   leō [ ' れオー ] 「ライオン」 (← 語根 leōn-
   homō [ ' ホモー ] 「人間」 (← 語根 homin-



などの例があります。この種の単語は、ラテン語にはけっこう多いです。  に終わる単語が、上の2種のタイプのどちらに属するかは、主格とニラメッコしても永遠にわかりません。数としては、 leo のタイプが多いです。


〓ラテン語で、「レオー」 と言っていた “ライオン” が、ロマンス諸語や英語で、 leone 「レオーネ」 とか lion 「ライオン」 になるのは、ラテン語の対格が、ロマンス語の主格にすり替わったからです。


〓同じようにですね、


   virgō [ ' ウィルゴー ] 「処女」 (←語根 virgin-


なのですよ。つまり、 homō のタイプなんですね。


〓これが、



   virgine [ ' ヴィルジヌ ] 古フランス語 (11世紀)
    ↓
   virgine 中期英語
    ↓
   virgin 現代英語



となるわけです。いっぽうで、フランス語はアクセント以降の音節が消失するので、


    ↓
   virge [ ' ヴィルジュ ] 古フランス語 (12世紀)
    ↓
   vierge [ ヴィ ' エルジュ ] 現代フランス語



となります。


〓あっは~ん、道草がとまらない。   クローバークローバー ヒツジ




   乙女座
   



〓だいぶ前に戻りますけど、古代メソポタミアのバビロニア、アッシリアには 「麦の穂を持つ豊穣の女神イシュタル」 という図像があったんでしたね。そして、バビロニアの天文学では、今の 「乙女座」 を 「畝間座」 (MUL-AB-SIN シュメール語) と言っていた。


〓紀元前から紀元2世紀までのあいだにおいて、小アジアのヒッパルコス、あるいは、エジプトのプトレマイオスといった学者が、どういうわけか、


   イシュタルの図像と、畝間座とを融合させて、“乙女座” という星座をつくりだした


というワケです。それゆえ、ヨーロッパでは、伝統的に、乙女座の図像は、


   麦の穂を持った乙女


に描かれるわけです。本来は、乙女ではなく、女神イシュタルなんです。



〓「乙女座」 “Virgo” において、「乙女が手に持つ麦の穂」 にあたる部分に、もっとも明るい主星である 「スピカ」 があります。このスピカは、


   spīca [ ス ' ピーカ ] 「麦の穂」。ラテン語


に由来します。


〓このラテン語の spica という単語は、中期英語に借用されていて、


   spik(e) [ ス ' ピーク ] 「麦の穂」。中期英語


となっています。中期英語の長音の [ i: ] は、その後の大母音推移 (だいぼいんすいい) によって [ ] と二重母音化するので、


   spike [ ス ' パイク ] 「麦の穂」。現代英語 <雅語>


となります。通常の英口語では、 ear 「耳」 という単語を使います。すなわち、


   ear of wheat 麦の穂
   ear of rice 稲穂


ですね。


〓「麦の穂」 を指す spike は、スポーツシューズのソールに付いている 「スパイク」 と同音同綴です。こちらは、


   *spīkaz [ ス ' ピーカズ ] 「釘」。ゲルマン祖語


に由来するものです。


〓しかし、実は、このどちらの単語も、


   *spēi- [ スペーイ~ ] 「トゲ、尖った棒」。印欧祖語


に由来する単語で、「麦の穂」 を意味する spike は、ラテン語を経由して英語に入り、奇しくも、ゲルマン語本来の単語と同形になっただけなのです。







  【 “ヒヤシンス” と “風信子” 】

〓ヒヤシンスが日本にもたらされたのは、1863年 (文久3年) で、品種改良が盛んにおこなわれたオランダから入ってきました。当時は、


   ヒヤシント (← hyacinth [ ヒア ' スィント ] オランダ語)


と呼ばれていました。問題なくオランダ語の発音に合致しますね。


〓ところが、江戸から明治に移る時期のどこかで、英語の 「ハイアスィンス」 と混ざってしまったようです。

〓ここで、日本語にあらわれた 「ヒヤシンス」 関連のコトバをまとめておきましょう。« » は漢字表記に関するもの。【 】 は名称に関するもの。



   【 ヒヤシント 】
      1863年 (文久3年) オランダより渡来。


   【 フイヤシンド 】
      『蛮草写真図』 山本章夫 (しょうふ) 幕末?
       ※スイセンの図に “黄花水仙 フイヤシンド” とある、という。


   « 飛信子 » [ (おそらく) ヒヤシンス ]
      田中芳男 1872年ごろ (明治5年ごろ)


   « 風信子 » [ ヒヤシント/ヒヤシンス ]
     用例は、同下↓
      岩川友太郎 1884年 (明治17年)


   【 ヒヤシント 】
    「 Hyacinthus 風信子 (ヒヤシント)」
      『生物学語彙』 岩川友太郎 1884年 (明治17年)


   【 風信草 】 [ ふうしんそう ]
    「風信草の花かほる吾家の岸をとめて漕ぐ」
      『あこがれ』 石川啄木 1905年 (明治38年)


   【 ヒヤシンス 】
    「ヒヤシンスと云ふ花で、日本では慥 (たし) か風見草と言って居ますが」
      『青春』 小栗風葉 (おぐり ふうよう) 1905~06年 (明治38~39年)


   【 風見草 】 [ かざみぐさ ]  ※本来は、「柳」 の異名。
     用例は、同上。


   【 ハイヤシンス 】
    「庭の赤と白とのハイヤシンスを盛って挿したのを」
     『桑の実』 鈴木三重吉 1913年 (大正2年)


   【 ヒアシンス 】 1914年 (大正3年)



〓見てのとおり、呼び名は明治時代を通じて安定しません。



〓福沢諭吉は、安政5年 (1858年) に江戸の築地に “蘭学塾” を開きますが、英語の重要性を認識し、文久3年 (1863年) “英学塾” に変更します。ヒヤシンスの渡来した年です。

〓1868年 (明治に改元された年)、“英学塾” は “慶應義塾” と改称されます。


〓明治19年に、尋常中学校 (旧制中学校) の第一外国語は 「英語」 となりました。(第二外国語は、仏語・独語から選択。ラテン語も必修) このあたりから、日本での英語学習が盛んになるようです。


〓江戸末期から明治時代を通して活躍した、日本の草分け的な “博物学者” 田中芳男 (たなか よしお。1838~1916) は、


   明治5年に “飛信子” という字をあてた


そうです。


〓「ヒヤシンス」 という表記の初出は、明治38年ごろとなっていますが、これは、「ヒヤシンス」 というカタカナ表記で、文字に残っている最初の例であり、“ヒヤシンス” という発音じたいは、さらにさかのぼる可能性があります。
〓というのも、明治5年の “飛信子” をそのまま読むと 「ヒ・シン・ス」 であり、「ヒヤシント」 にあてた表記とは考えられないからです。
〓おそらく、植物学の分野でも、オランダ語に固執するヒト、また、英語を採り入れようとするヒト、というふうに、態度がさまざまだったんでしょう。


〓明治初期には、英語の教材が満足に揃っておらず、語末の -th を 「~ス」 とすることはわかっても、語頭の hya- を 「ハイア~」 と読む、ということが理解されていなかったとしてもフシギではありません。それで、オランダ語と同じに読んでしまった。




「風信子」 という表記は、「飛信子」 から12年目の明治17年に見えます。もちろん、これ以前に使われていたかもしれません。
〓ヒヤシンスはよく香る花であり、田中芳男は、その意味で 「飛信子」 と表記したのでしょう。
〓そして、「風信子」 という表記は、「飛ぶ」 (ヒ) を 「風」 (フウ) とウッカリ間違えたのか、あるいは、「風」 を使ったほうがシックリくると感じて意図的に表記を変えたものか。


〓いずれにしろ、明治時代半ばに英語の優勢が決定的になるまで、オランダ語読みの 「ヒヤシント」 と英語読みの 「ヒヤシンス」 が並行して存在したようです。



〓「飛信子」 や 「風信子」 が日本人の発明した表記であり、中国語の影響ではない、と言えるのは、 -th [ θ ] に終わる外来語を、中国人は 「~斯/~丝 (糸)」 -sī [ スー ] で写すからです。



   史密斯 shĭmìsī [ しーミースー ] Smith 「スミス」
   华兹华斯 huázīhuásī [ ふアツーふアスー ] Wordsworth 「ワーズワース」
   格温斯()-特洛 géwēnnísī pàtèluò
             [ クーウェンニースー ぱーとぅーァるオ ] Gwyneth Paltrow 「グウィネス・パルトロウ」



〓「斯」 の音読みは 「シ」 であり、日本語と音が合いません。「莫斯科」 (モスクワ) のような漢字表記で、「斯」 を 「ス」 に読むのは、これが、もともと中国語表記だからです。


〓ただし、中には中国語を真似てつくった日本人の表記もあります。たとえば、


   【 瓦斯 】 [ ガス ]


がそうです。この表記は中国でも使われていますが、和製表記です。


   「瓦斯」 wǎsī [ ワースー ] 北京音
   「瓦斯」 ŋa5-ʃi1 [ カ゚シ ] 広東語音


〓「瓦」 を “ガ” にあてようというのが日本的発想なんですね。



〓そもそも、「子」 を “ス” と読むのは、 ts 音を持たない時代の日本語の訛りであって、中国語では、歴史的にも・地域的 (方言) にも 「子」 の子音が s になったことはありません。


〓日本語の 「ツ」 が ts 音で発音された最初の証拠は、1523年 (室町時代終盤) の中国語資料です。つまり、それまでの日本人は 「ツ」 を “トゥ” と発音していたということです。


〓中国語において、「子」 という漢字は、



   [ tsi̯ə ] [ ツィア ] 上古音 (紀元前11世紀~紀元4世紀)
    ↓
   [ tsi̯ətsi ] [ ツィア → ツィー ] 中古音 (5~11世紀)
    ↓
   [ tsɿ ] [ ツー ] 近代音・現代音 (12世紀~現代)



というふうに発音されてきました。中国語の単語としては、あまり変化しなかった部類に入ります。語頭の子音は、一貫して [ ts ] です。


〓また、方言を見ても、



   広州音 (広東語) [ tʃi ] [ チー ]
   陽江音 (広東語の下位方言) [ tʃei ] [ チェイ ]
   厦門音 (アモイ/閩南語) [ tsu / tsi ] [ ツー / ツィー ] (文語/口語)
   福州音 (閩東語) [ tsy / tsi ] [ ツュー / ツィー ] (文語/口語)
   建甌音 (けんおう/閩北語) [ tsu / tsɛ ] [ ツー / ツェー ] (文語/口語)



といったところを除けば、中国のほとんどの方言で北京語と同じ [ tsɿ ] [ ツー ] という音です。



〓つまり、日本語の 「タチツテト」 が、まだ、「タ・ティ・トゥ・テ・ト」 と発音されていた時代の日本人が、


   中国語の 【 子 】 [ tsi ] [ ツィー ] を 「シ」 で写し、
   のちに 【 子 】 [ tsɿ ] [ ツー ] となった音を 「ス」 で写した


ということです。


〓日本語で、「子」 を “ス” と読む古い例は、



   【 附子 】 [ ブス ] 12世紀。トリカブトの根を乾燥させた漢方薬。毒薬ともなる。
   【 払子 】 [ ホッス ] 13世紀。僧侶が持つ “はたき” のような仏具。
   【 様子 】 [ ヨウス ] 13世紀。



の3語あたりです。「払子」 に対する 「帽子」 (もうす) の初出は 14世紀。


「附子」 (ブス) というのは、今でも、ときどき、毒殺犯罪に使われるトリカブトの根のことですが、17世紀から、「恐ろしいもの」、「忌み嫌うべきもの」 の意に転用され、ご存じのとおり、「ブサイクな女子の蔑称」 となるに至っています。
〓「子=ス」 の用例が 12世紀からというのは、まったく、中国語の語音史どおりで、ナンか、スカッとしますね ニコニコ



〓ソンナコンナで、「ヒヤシンス」 の語末の 「ス」 に “子” を宛てている時点で、こりゃもう、日本人の考案した表記だとわかるんですね。

〓ところが、面白いことに中国語でも、ヒヤシンスは 「风信子」 です。ということは、


   中国語が、日本語の表記を借用した


ということになります。



〓外来語の宛て字というのは、あんがい、日本語が先か、中国語が先か、わからないことが多いんです。語末の 「子=ス」 のような特徴があって、始めてどちらが先か推測できるわけですが、単語によっては、どちらが先かわからないことも少なくありません。


〓中国語では、


   【 風信 】 (1) 風向き。風のようす。(2) 消息。風のたより。


のことです。


〓実は、日本語でも、19世紀まで、この両語義の用例が見えますが、現代語では使われなくなっています。1896年 (明治29年) に、 「風向計」 の意味で “風信器” というコトバがあり、まだ、この時代には理解されていたコトバだとわかります。


〓すなわち、ヒヤシンスに対し 「風信子」 という表記が宛てられた時代には、まだ、


   「風信」 は “風向き” を意味する


ということが知られていたわけです。



〓中国語では、 「~子」 -zi は、単音節の語に付いて2音節の名詞をつくります。


〓以前、「キンモクセイ」 について書いたときにも説明したことですが、中国語は、時代が降って、発音が擦り切れるとともに、同音異義語が増え、文字に支えられた 「文語」 では意味が取れるものの、「口語」 では意味が伝わりにくくなりました。


〓その対策として、多くの単語が2音節化しました。そのときに、「余分に付ける1音節を何にするか?」 という問題が起こります。まったく、ケースバイケースで、いろいろな単語を付加して2音節化がおこなわれました。
〓しかし、付加するのに適当な語が見つからない場合は、 「~子」 -zi を付けて2音節化するという、アンチョクな方法もあったのです。


〓よく考えると、日本語で、ナンで 「子」 が付くのかよくわからん、というコトバがありますが、多くは、中国語のこうした事情から来たものです。



   冊子 cèzi [ つーツ ] サッシ
   銚子 diàozi [ ティアオツ ] チョウシ (中国では “柄の付いた小さい鍋”)
   調子 diàozi [ ティアオツ ] チョウシ
   格子 gézi [ クーツ ] コウシ
   菓子 guǒzi [ クオツ ] カシ (本来は “果物”。日本語で転義した)
   骨子 gǔzi [ くーツ ] コッシ
   餃子 jiǎozi [ チアオツ ] ギョウザ
     ※「ギョウザ」 という読みは、20世紀の中国東北方言音、あるいは朝鮮音に由来する、と考えられている。
   金子 jīnzi [ チンツ ] キンス
     ※中国語では “金” キンのこと。日本語でも、本来は、金貨を指した。
   帽子 màozi [ マオツ ] ボウシ → モウス
   面子 miànzi [ ミエヌツ ] メンツ
   茄子 qiézĭ [ ちエツー ] なす
     ※この語は、日本語で 「なすび」 と呼ばれていた。のちに、「~び」 が落ちて、
      主に、東日本で 「なす」 となった。“茄子” という中国語は、本来、
      音読みで 「カシ」 と読むべき語であり、「子」 に 「す」 が当たったのは偶然である。
   拍子 pāizi [ ぱイツ ] ヒョウシ
   骰子 shăizi [ しゃイツ ] さいころ
   扇子 shànzi [ しゃヌツ ] センス
   杓子 sháozi [ しゃオツ ] シャクシ (今の中国語では “勺子”。発音は同じ)
   刷子 shuāzi [ しゅアツ ] はけ、ブラシ
   梯子 tīzi [ てぃーツ ] はしご
   硝子 xiāozĭ [ シアオツー ] ガラス
     ※この語は、中国では、人工的につくられた水晶の代用品を指した。本来は、
      「ショウシ」 と読むべき語である。日本では、明治時代に 「硝子」 を
      「ビードロ」 の表記に宛て、のちに、「ガラス」 の表記に変わった。
      つまり、「子」 を “ス” と読むように見えるのは偶然である。
   様子 yàngzi [ ヤンツ ] ヨウス
   椅子 yĭzi [ イーツ ] イス
   障子 zhàngzi [ ちゃンツ ] ショウジ
   ――――――――――――――――――――


   【 以下は和製のコトバ 】

   梃子 tĭngzĭ [ てぃンツー ] 中国語では 「紡錘」 の俗称。
     「テコ」 は、日本語起源で、初期は 「手子」 と書かれた。
   賽子 「さいころ」 は、日本語でつくられた表記。↑「骰子」
   囃子 「はやし」
   捻子 「ねじ」
   捩子 「ねじ」
   束子 「たわし」





〓どうです? マルッきり日本語のようになってしまっているコトバが多いですね。


〓中国語では、また、2音節の語に 「~子」 -zi を付けて、口語的語彙をつくることもあります。ですから、「風信子」 という日本語表記は、ナンの抵抗もなく中国語に溶け込んでしまったんですね。