「シンガポール」 の由来。 | げたにれの “日日是言語学”

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   シンガポール


〓現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアのあたりには、かつて、広大な仏教国


   “シュリーヴィジャヤ王国”  śrīvijayá- m.)

            (7~13世紀)


が存在しました。
〓現在の東南アジアでは、“上座部仏教” (じょうざぶ ぶっきょう=小乗仏教) が主流ですね。スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、およびベトナム南部が、その領域です。いっぽう、チベット、モンゴル、中国、朝鮮、日本、ベトナムは、“大乗仏教” (だいじょうぶっきょう) が主流です。
〓おもしろいことに、シュリーヴィジャヤ王国というのは 「大乗仏教国」 でした。

〓東南アジアでは、古くからインドの宗教事情のあおりを食らって、宗教が次々と入れ換わったり、異なる宗教を信奉する国々が軒を並べる、という事態が起きました。
〓もっとも古く伝わったのはヒンドゥー教です。紀元前から伝わっていました。そののち、5~6世紀ころ、仏教が伝わり、その最大の “宗教の傘” がシュリーヴィジャヤ王国でした。
〓日本で有名な仏教遺跡というと、ジャワ島中部の世界遺産 “ボロブドゥール寺院” Candi Borobudur があります。これは、のちにシュリーヴィジャヤ王国と合併する “シャイレーンドラ朝” の寺院です。


   ボロブドゥール
   ボロブドゥール寺院  Candi Borobudur



〓シュリーヴィジャヤ王国が衰退を始めると、ジャワ島の東半分を占めるヒンドゥー教国 “マジャパイト王国” Kerajaan Majapahit (13~16世紀) が興りました。
〓しかし、ちょうど同じころ、アチェでは、東南アジアで最初にイスラーム教が受容されていました。2004年末の大津波による被害で有名になった “アチェ” です。このイスラーム教国家を “サムドラ・パサイ王国” (13~15世紀) と言います。
〓奇しくも、細長い現在のインドネシアの 「スマトラ島~ジャワ島」 の東の果てでヒンドゥー教が再興し、西の果てでイスラーム教が勃興していたわけです。
〓どちらがインドネシアを制覇したかは、もうわかりますね。


〓マジャパイト王国は、最盛期の14世紀には、シュリーヴィジャヤ王国の領域をそっくり含む地域を支配下に収めていました。しかし、15世紀の初めに、もとのシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子、パラメスワラ Parameswara が反撃に出るんですね。
〓中国 (明) の永楽帝が派遣した “世界を探索する探検船団” である 「鄭和艦隊」 (ていわかんたい) の保護のもと、パラメスワラは海上交易の拠点であるマラッカで “マラッカ王国” を建てます。
〓交易港であるマラッカには、アラブやインドのムスリム商人が集まりました。また、鄭和艦隊の指揮者である “鄭和” (ていわ) は、明から派遣された人物でありながら、もとは、雲南に住まわっていた色目人 (しきもくじん=非漢人である西域出身者) で、代々のムスリムでした。
〓おそらく、そのようなことから、シュリーヴィジャヤ最後の王子パラメスワラは、イスラームに改宗し、マラッカ王国をイスラーム国家としたのでした。

〓マラッカ王国の繁栄は、ヒンドゥー教国マジャパイトを弱体化させます。そして、16世紀、雪隠詰めよろしく、西側からイスラーム教諸国に圧迫されたマジャパイトは滅亡し、貴族や僧侶はバリ島、および、それ以東のヒンドゥー国家に亡命したと言います。
〓今でも、バリ島は、インドネシアの中でもヒンドゥー教を信奉する地域として有名ですね。バリ島のヒンドゥー教は、マジャパイト王国の名残というわけです。


〓と、以上、インドネシアおよびマレー半島の歴史をカンタンにたどっていただきました。

〓そこで、昨日の “シンガポール観光局” による 「マーライオンの由来」 のクダリを思い出していただきましょう。


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おとめ座マーライオンは、何を象徴しているの?

しし座マーライオンは、ライオンの頭とサカナの体を持ち、波の上に乗っています。ライオンの頭は、『ムラユ年代記』 に記された、シンガプラ発見の伝説を象徴しています。大昔、シンガポールはジャワ語で海を意味するトゥマセク Temasek という名前でした。11世紀、シュリーヴィジャヤ王国のサン・ニラ・ウタマ王子 Sang Nila Utama が、この島を再発見しました。王子がシンガポールの浜辺に初めて降り立ったとき、不可思議な獣を目撃しました。のちには、それがライオンであったとわかります。王子は、島の名前を “シンガプラ” Singapura と定めました。サンスクリットで、ライオン (Singa) の城市 (Pura) を意味します。マーライオンの魚の尾ビレは、大昔の町 トゥマセク Temasek を象徴し、シンガポールもその始まりは質素な漁村であったことを物語っています。

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〓きのうより、少しはイメージを持って読むことができたんではないでしょうか。
〓観光局の説明とは言え、やはり、おかしなところがあります。サン・ニラ・ウタマがシンガポール島を支配していたのは、『ムラユ年代記』 “Malay Annals” によれば 1299~1345年のことで、11世紀というのはオカシイですね。
〓それと、Temasek 「トゥマセク」 はジャワ語で “海” を意味する、というのもヘンテコです。ジャワ語にそんな単語は見当たりません。
Temasek がジャワ語である、という説は、Wikipedia を含めて、ネット中に蔓延している説ですが、そもそも、ジャワ語に Temasek に似た単語が存在しません。その上、シンガポールはジャワ語の使用域から遙かに隔たっており、そのような土地の海辺の寒村が、ジャワ語の名前を名乗っているハズがありません。

〓もっとも、『ムラユ年代記』 “Sejarah Melayu” じたいが 17世紀にマラッカ王国で編纂されたものであり、シンガポール発見のハナシも “伝承” に過ぎないことは覚えておいてください。


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   サン・ニラ・ウタマ


サン・ニラ・ウタマはスマトラの王子であった。新しい都市を築くのにふさわしい土地を探しながら、スマトラ沖の島々を訪ねることとした。パレンバンから船団にて出帆し、一行はリアウ諸島 Riau Islands に到着し、土地の女王に歓待された。数日後、サン・ニラ・ウタマは近隣の島に狩りにでかけた。
狩りの途中でシカを見かけて追い始めた。すると、ひじょうに大きな岩に出くわし、これを登ってみることにした。頂上に着くと、海の向こうに、まるで白布を広げたような砂浜の広がる別の島が見えた。


家臣に、あの島は何であるか、と訪ねると、Temasek 島であるという。彼は Temasek を訪れることにした。しかし、船を出すと、激しい嵐が吹き荒れ、船は大波に木の葉ごとく翻弄され、浸水し始めた。

船員たちは、沈没をまぬがれようと、重い荷物を海に投げ入れた。しかし、浸水はやまず、サン・ニラ・ウタマは船長のことばに従い、重みのある王冠を投げ入れた。すると、にわかに嵐はやみ、無事に Temasek に着くことができた。


彼は、今で言うシンガポール川の河口に上陸し、野生の獣を狩りに内陸へと入って行った。突然、体が赤く、頭が黒く、胸が白い、奇妙な獣が現れた。それは、美しい獣で、ものすごい速さで密林の中へと消えて行った。


彼は、大臣に、あの獣は何であるか、と尋ねた。すると、それはライオンである、と言う。ライオンは吉兆である、と信じていたので、彼は喜んだ。それゆえ、Temasek に新しい都市を築くこととし、王と家臣たちはその島にとどまり、都市を建設した。
彼は、その都市を “Singapura” と名付けた。サン・ニラ・ウタマはシンガプラを48年間支配し、Bukit Larangan (現 Fort Canning Hill) に埋葬された。


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シンガポールの地にライオンが棲息したことは、コンリンザイなく、もし、この伝承が事実とすれば、サン・ニラ・ウタマが見かけたのは “虎” ということになるでしょう。
〓しかし、「ライオンは吉兆である」 ことから、大臣がオベッカをつかったのかもしれませんね。

〓ブッダは、おのれの偶像化を嫌ったために、ブッダ亡きあとの初期の仏教では、偶像の代わりになるものが求められました。それが、たとえば、

   「法輪」、「菩提樹」、「仏足石」、「獅子」

といったものでした。
〓サンスクリットの siṃhá-  (m.)  [ siŋ ' ha ] [ スィン ' ハ ] は、「ライオン」 の他に、

   「力強い者」、「英雄」、「傑出した人物」、「王子」、「王」

などの意味も持ちます。

Sang Nila Utama は、17世紀のムラユ語 (マレー語) による呼び名で、Sang は名前の一部ではなく 「敬称」 です。Nila はサンスクリット起源のムラユ語で、「藍色、インディゴ」 の意味、Utama もサンスクリット起源のムラユ語で、「最上の」 という意味。そのため、Nila Utama という名前が、ムラユ語なのかサンスクリットなのか判別することができません。
〓シュリーヴィジャヤ王国は、文字資料を残しておらず (あるいは、熱帯のことゆえ、すべて朽ちてしまったのか)、支配者が、どの系統の民族だったのかハッキリしません。しかし、支配層や僧侶たちがサンスクリットの読み書きができたのは間違いないでしょう。
〓しかし、一般民衆、すなわち、被支配者階層は、おそらく、今とたいして民族分布は変わっていなかったでしょう。つまり、マレー半島はムラユ語、ジャワ島はスンダ語とジャワ語、そして、スマトラ島はアチェ語、ミナンカバウ語、バタク語を初めとする多数の言語を話す民族で構成されていた。

〓おそらく、通用語としてはムラユ語 (マレー語、マレーシア語) が使われていたんではないでしょうか。すなわち、この地域にムラユ語が普及し、また、現在のインドネシアの共通語として採用された背景には、交易にムラユ語が使われていた、という事実があります。
〓この地域を支配した王国が、いずれも、交易を財源にしていたことを考えれば、実用上の主要言語がムラユ語であった、と考えてもおかしくありません。
〓また、シュリーヴィジャヤ王国圏で使用されていた言語がムラユ語でなければ、ムラユ語、インドネシア語に、かくも大量のサンスクリットが借用されている理由が説明できません。


〓ところでですね、先にも書いた 「シンガポール」 の古名である

   Temasek

ですが、ネット上の膨大な記述が、

   Temasek はジャワ語で 「海」、「海の町」

と書いているにもかかわらず、それをキチンと裏付けたものがまったくないのです。

〓各言語の Wikipedia もまったく問題になりません。ムラユ語版 Wikipedia でさえ、

   Temasek, atau 'Bandar Laut'
    「トゥマスク、あるいは “海の都”」

と書いています。ただし、何語なのかは特定していません。
〓インドネシア語版 Wikipedia は、ひじょうに興味深い記述をしています。全インターネット上で唯一のまともな記述と言ってもいいかもしれません。


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Temasek menurut istilah bahasa Melayu mempunyai arti hutan rawa. Hal ini merupakan keadaan Singapura pada tahun 1970-an. Sebelum bernama Singapura, negara/daerah tersebut dikenal dengan nama Temasek.

Kata temasek diambil dari bahasa Jawa (Kuna) tumasik yang kurang lebih berarti "menyerupai" laut.


Temasek はムラユ語にしたがえば、「沼の森」 “hutan rawa” の意味である。これは 1970年代までのシンガポールの状態だった。シンガプラと名付けられるまで、この国/地域は、Temasek という名で知られていた。

Temasek は、古ジャワ語の tumasik から採られたと言うが、tumasik は、

   「海のような」

というほどの意味である。


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〓なるほど、古ジャワ語であったか。
〓ムラユ語で 「沼の森」 というのも、どうやら現代ムラユ語では辞書をひっくり返しても、Temasek をそのように解釈できないので、古ムラユ語ということなんでしょう。どちらにしても古ジャワ語、古ムラユ語の資料など手に入らないので手詰まりです。

〓しかし、シンガポールは地域から言えば、あきらかにムラユ語の領域であり、

   Temasek = 沼の森

のほうが可能性が高いと言えそうです。


 sungei_buloh
 “Sungei Buloh Wetland Reserve” 「スゲイ・ブロ湿地保護区」。

    “Sungei Buloh” というのは、標準ムラユ語・インドネシア語でいう “sungai buluh” 「スガイ・ブル」 であろう。

    “sungai” は 「川」、“buluh” は 「竹」。すなわち、「竹の川」 のこと。ムラユ語・インドネシア語で 「マングローブ」 は

    bakau 「バカウ」 だが、「竹の川」 という見立てもあったのだろうか。

    マレーシアのクアラルンプル近郊にも “Sungai Buloh” という地名がある。



〓ところで、英語で Singapore [ ' スィンガ , ポァ ] と呼ばれるシンガポールですが、ムラユ語・インドネシア語では、

   Singapura [ siŋa ' pura ] [ スィカ゚ ' プラ ]

ですね。「スィガプラ」 です。ng で1文字です。「シンガプラ」 と発音させるなら、

   Singgapura


と綴らねばなりません。

singa [ ' スィカ゚ ]、pura [ ' プラ ] とも、現代ムラユ語・インドネシア語に残る単語ですが、どちらもサンスクリット起源です。
〓サン・ニラ・ウタマは、おそらく、サンスクリットで名付けたということでしょう。

   सिंह siṃha- [ siŋ 'ha ] [ スィン ' ハ ] m. ライオン、獅子 しし座
    +
   पुर pura- [ pura ] [ プラ ] n. 要塞、城、(濠に囲まれた) 町・都市 城
    ↓
   सिंहपुर siṃhapura- [ スィンハプラ ] n. 「獅子城、獅子市」



サンスクリットを扱う際は、通常、語幹で表記します。これがラテン語やギリシャ語なら、-us とか -ος まで表記するのですが、サンスクリット学では伝統的に語幹だけしか表記しません。
〓「ライオン」 が m. というのは男性名詞、「城塞都市」 が n. というのは中性名詞という意味で、主格では、それぞれ、

   siṃha [ スィン ' ハフ ] ライオンが
   puram [ プラム ] 城塞都市が

となります。「シンハプラ」 は、

   siṃhapuram [ スィンハプラム ] “シンガポール” が

となります。合成語の前半要素は語幹のままです。
〓しかし、サンスクリットを借用する言語は、

   語彙を語幹の形で採り入れる

のが普通です。だから、ムラユ語でも Singapura なんですね。この語形は、

   Singhapura の h が落ちたもの

でしょう。h g に変じたものではありません。発音は [ siŋapura ] ですから。


〓なんだか、わざわざややこしく説明してしまいました。もっとも、

   「シンガポール」 は “ライオンの町”

というだけの説明なら、ネットのいたるところに転がっていますのでね……