「ネス湖」 の名前の由来。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

〓先週の 「世界ふしぎ発見!」 のテーマは、「ネッシー」 でしたね。面白いと思ったのは、

   ネス湖の近くに住む人たちは、みんな、地元のコミュニティでは、
   ネッシーを見たハナシをするけれども、ヨソに行ったときには、
   いっさい、そういうハナシをしないようにしている


ということです。なるほど、とね。

〓ネス湖のことは、英語で、

   Loch Ness [ 'lɔx 'nes ] [ ' ろっほ ' ネス ]
            もしくは、 [ 'lɔk 'nes ] [ ' ろック ' ネス ]

と言います。 Ness が湖の名前で、 loch が 「湖」 です。
〓「ネス湖」 は、現地の本来の言語、スコットランド・ゲール語では、

   Loch Nis [ lɔx ni:ʃ ] [ ろっほ ニーシュ ]

と発音します。
〓スコットランド北部は、たびたび、ヴァイキングの侵入があったらしく、地名には、

   -ness, -nis, -nish

に終わるものが多くあります。たとえば、


   Duirinish 英語名 [ 'du:rɪnɪʃ ] [ ' ドゥーリニシュ ]
     ゲール語綴り Diùranais, Diùirinis
     古ノルド語 dýr [ デュール ] 「鹿」 + nes [ ネス ] 「岬」
        → 「鹿岬」

   Caithness 英語名 [ 'keɪθnɪs ] [ ' ケイすニス ]
     ゲール語名 Gallaibh
     古ノルド語 kǫttr [ コットル ] 「猫」 + nes 「岬」
        → 「猫岬」

   Hushinish 英語名 [ 'hu:ʃɪnɪʃ ] [ ' フーシィニシュ ]
     ゲール語綴り Hùisinis
     古ノルド語 hús [ フース ] 「家」 + nes 「岬」
        → 「家岬」


といった地名です。こうした名前の土地に入植していたのはヴァイキングでした。

〓古ノルド語の nes [ ネス ] は 「岬」 headland を意味しており、現代英語でも ness [ 'nes ] 「岬」となっています。

〓しかし、「ネス湖」 の Ness はこれではない、と言われています。確かに、海岸線の地名ならともかく、内陸の湖に 「岬」 という名前がつくのはヘンですね。
〓19世紀に西ハイランドで採取された伝承に、次のようなものがあるそうです。



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今、ネス湖がある場所には、昔、美しい谷があった。


ある日、ひとりの女が水を汲みに出かけると、泉からたくさんの水が噴き出しておった。女は恐ろしくなって、水差しも放り出し、必死で逃げ出した。


一度も休むことなく小高い丘の頂上までたどり着いて、後ろを振り返ってみると、谷は水に沈んでおった。1軒の家も、1枚の畑も見えなくなっていた。そこで女は言ったそうな。

   Tha Loch ann a nis. [ ハ・ロッホ・アン・ア・ニーシュ ]
       「今では、そこに湖がある」

なので、そこは 「ニーシュ nis =今」 の湖と呼ばれるようになった。
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〓湖の東端には、インヴァネスという町があります。日本語で、昔、「男性用の、袖なしで、ケープのついた外套をインバネス inverness 」 と言いましたが、この町の名前に由来するものです。英語では 1865年、日本語では1903年 (明治36年) が初出です。「インバネス」 の発祥は、このインヴァネスの町である、と言います。
〓「インバネス」 なんて知らん! というヒトも、

   シャーロック・ホームズの着ているケープ付きのコート



        inverness



と言えば、「ああ!」 とガテンがゆくでしょう。

〓この Inverness という地名は、ゲール語の

   Inbhir Nis [ インヴィル ニーシュ ] 「ニーシュの口」、「ネス湖の口」

に由来するものです。ゲール語の bh は [ v ] 音です。


〓英国では、昔から、どういうものか、スコットランドの湖の名を呼ぶときに、 Loch ~ とゲール語を使います。試しに、 Google UK で “Lake Ness” と検索してみると、89件しかヒットしません。 “Loch Ness” は 719,000件です。
〓イングランド人でも、正式な発音は、通常、ゲール語どおり [ 'lɔx ] とするようです。 [ 'lɔk ] というのは [ x ] が発音できないヒトの発音でしょう。

〓英語のネイティヴが、「英語にない音」 を進んで発音する、というのは、ひじょうに珍しい現象です。というのも、 [ x ] の音は、古い時代の英語には存在していて、 -gh- という綴りであらわされていました。 light 「リヒト」、 daughter 「ドホトル」 のタグイですね。
〓どうやら、イングランド人は、この子音をあらたに習得したのではなく、古英語の時代から保存してきたようなのですね。 loch は、中期英語では lough と書かれます。

〓英語で書かれた語学書を見ると、たとえば、ドイツ語の doch の ch、あるいは、ロシア語の хорошо の х の発音を説明するときに、必ず出てくる決まり文句が、

   “ch” as in “loch”    「 loch の ch のごとし」

という説明です。


〓ところで、このスコットランド・ゲール語の loch は、英語の lake に似ていると思いませんか。それもそのハズでして、語源は同じなのです。

   *lakw- [ らクゥ ] 「湖、池」。印欧祖語

〓この語基に由来する単語は、たいていの語派に見出すことができます。


   λάκκος lakkos [ ' らッコス ]  「窪地、穴、貯蔵庫、池」。古典ギリシャ語
   лужа luzha [ ' るーじゃ ] 「水たまり」。ロシア語
   lekmẽnė [ れクメ ' エネー ] 「水たまり」。リトアニア語

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   *lagú-z, *láx-ō [ ら ' グズ、' らほー ] 「海、水」。ゲルマン祖語
       lagu [ らグゥ ] 「海、水」。古英語
            ※ただし、現代英語の lake は、フランス語を経由したラテン語。
       lǫgr [ ' ろグル ] 「海、水」。古ノルド語

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   lacus [ ' らクス ] 「桶、穴、水盤、湖、池」。ラテン語
       lago [ ' らーゴ ] 「湖」。イタリア語
       lago [ ' らーご ] スペイン語
       lago [ ' らーグ ] ポルトガル語
       lac [ ' らッキ ] フランス語 → lake [ ' れイク ] 英語
       llac  カタルーニャ語
       lac [ ' らック ] ルーマニア語

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   *laku-s [ らクス ] ケルト祖語
       loch [ ' ろホ ] アイルランド・ゲール語、スコットランド・ゲール語
       lenn  ブルトン語
       llyn  ウェールズ語



〓ざっと、こんなぐあいです。