〓実は、「ソビエト映画祭」 のことは、思い出したことのハシッコでありまして、甦った記憶の中心は何かというと、
『孤独の声』 アレクサンドル・ソクーロフ
という映画なのです。この映画は、実に地味な日本デビューをしました。
〓今では、東京の映画地図も、バブルのころに比べて、だいぶ塗り変わってしまいましたが、当時は、高田馬場がチョイとした核のひとつでした。
高田馬場 東映パラス
高田馬場 パール座
ACTミニシアター
早稲田松竹
なんて映画館が並んでいました。
〓今は、二番館の 「早稲田松竹」 を除いて、すべて閉館しました。いっときは、「早稲田松竹」 も閉鎖されて高田馬場から映画館が消えたときもありました。2001年に、設備の老朽化にともない閉鎖。ファンの声などもあって、2003年に改装されて再開し、今日に至っています。
〓アタシが、いちばん通っていたのは、
高田馬場 東映パラス
なんです。駅の早稲田口 (東口) に出て、目の前の早稲田通りを渡った正面にある 「稲門ビル」 (とうもんびる) の中にありました。ヘンテコな雑居ビルで、レストラン、ビリヤード場、映画館などが入っていたんですね。
〓「東映パラス」 というからには、東映の直営館のように思うんですが、掛かる映画はフタクセもミクセもある映画が多かったですね。だいたい、名画座なのか、ロードショー館なのか、ハッキリしないところが面白かった。たとえばですね、
『コブラ・ヴェルデ』 ヴェルナー・ヘルツォーク
『クロイツェル・ソナタ』 ミハイール・シュヴェイツェル、ソフィヤ・ミリキチ
といった映画は、この映画館の “単館ロードショー” でした。そうかと思うと、フェリーニだの、ブニュエルだの、わかりますね、そのテの映画がかかります。
〓たぶん、あの映画館の支配人は、相当な映画好きだったと思うんですよ。東映パラスの上映記録を見てみたいくらいです。
〓面白いのは、この映画館は、名画座であるにもかかわらず、
「絵入りの前売り券」
をつくっていたんです。スゴイじゃないですか。やっぱり支配人が凝り性なんですよ。今から考えれば、「名画座で、カラーの絵入り前売り券を作製する」 なんてのは考えられません。ロードショー館でも前売り券を 「チケットぴあ」 で済ませているところがあるくらいですから。
〓この前売り券というのがですね、よそのプレイガイドでは、なかなか出まわらないのです。アッシは、よく
前売り券を買うためだけに、高田馬場まで行った
ものでした。もっとも、駅前の洋書店ビブロスには、年中、行っていたんで、問題はなかったんですが。
〓この高田馬場東映パラスの支配人は、ソ連映画も好きだったらしく、このヘンは記憶違いで、他の映画館だったのかもしれませんが、
「ミ~ハ~ミハルコフ」
というタイトルで、ニキータ・ミハルコーフの特集上映があり、ミハルコーフ自身が映画館にやって来たんですよ。その当時、ニキータ・ミハルコーフは、若い女性たちに人気があったようで、サイン攻めに遭っているなかで、アタシは遠くから、それを物欲しげに眺めているみたいな……
〓また、『鶴は翔んでゆく』、『誓いの休暇』 なんていう、いわゆる、ソ連邦の名作を掛けることもありました。そうえいば、『誓いの休暇』 のグリゴーリイ・チュフライ監督が 1978年に制作し、
脱走兵をかくまう母親の話
であったために上映禁止となった、
『君たちのことは忘れない』
が、1990年に解禁になったときに、日本でロードショーしたのも、この高田馬場東映パラスでした。
〓このような映画館ですから、観客で満員なんてことはありませんでした。いつでも、ほどよくスカスカという感じなんですね。それでも、映画の選び方がうまかったのか、ユーロスペースのような 「映画マニアの巣窟」 みたいな雰囲気が染みついていることはありませんでした。どこまでも名画座。
〓ですから、ニキータ・ミハルコーフの例でわかるように、若い女性客もいました。
〓映画館のつくりは、あくまで東映直営ふうで、ミニシアターみたいにセコセコした感じではなく、劇場も大きく、廊下なんぞも広い感じでした。最近まで残っていた感じで言うと、「銀座文化」 が近いかな。
〓一度ですね、アッシがトイレから出ると、その目の前を、女子トイレから出てきた若い女性が、ヒトケのない廊下をむこうへ向かって歩くのが見える。ええ、トンデモナイ光景でした。
スカートの後ろの裾が、そっくりパンストの中に入っちゃってる
〓二瞬くらい躊躇して、やっぱり、教えるべきだろうと思い、早足でアトを追う。映画館が大きいので、廊下も長い。10メートル以上先で、彼女が廊下を右に折れました。アッシもアトを追って右に曲がる。
そこには誰もいなかった
のですね。いや怪談じゃござんせん。たぶん、最寄りの入口から中に入ったんだと思うんです。映画は、まだ、始まっていないから、そのまま歩いていくと、劇場内で天然ご開帳ということだったんでしょう。
〓アッシは、アトを追って中に入るのをやめ、しばらく、ロビーで、こういうバヤイ、ヒトはどうすべきか、なんぞということについて考えていました。
〓そんなふうな、のほほ~んとした映画館 だったんですね。
〓……っとっと、そういうハナシではござんせん。
〓 1988年。この映画館で、「ソビエト・シネマ・フェア '88」 というのが開催されたんですね。'88 と銘打っているものの、その翌年も開かれたかどうか、記憶にありません。このとき、やはり、フェアの1本として “日本初公開” されたのが、
『孤独の声』 アレクサンドル・ソクーロフ
でした。フェアですから、他にも上映作品があったんですが、この作品が、もっとも、鮮明に記憶に残りました。
〓背景としては、1932~33年にかけてウクライナで起こった大飢饉があります。ウクライナは土地が肥えていて、ロシアの穀倉地帯だったのですが、レーニンの死後、権力についたスターリンが、クラーク (富農) の追放と農業の集団化を推し進めた結果、穀物の生産量が激減しました。いわば、スターリンの失策でした。
〓しかし、スターリンは、軍隊を動員し、ウクライナの農民に銃を突きつけながら、彼らのもとにある穀物の最後の一粒まで取り上げ、全部、モスクワに持ち帰ったんです。結果、どうなったか。
ウクライナで、600~700万人の人が餓死した
のでした。
〓こういうことがあった、というのは、あとで知ったことで、ソクーロフの 『孤独の声』 を見たときには、そんなことは知らなかった。しかし、この映画が、ナニか 「ニンゲンの経験したトンデモナイ地獄」 を描いていることはわかりました。
〓手法がすごかった。タルコーフスキイを、さらに先鋭化させた感じなのです。セリフや音があっても、記憶の中では、
サイレント映画だった
としか思えない。どういうか、「夢の中で見た映像」 としか思えなかった。
〓ソクーロフの映画が日本で上映されたのは、これが初めてだったと思います。今では 『孤独な声』 というタイトルだそうですが、アタシの中では、日本語としてヘンテコな
『孤独の声』
というタイトルと、あの映像が不可分に結びついているので、言い換える気になりません。
〓原題は、
Одинокий голос человека
Odinokij golos chelovjeka
[ アヂ ' ノーキイ ' ゴーらス チェら ' ヴィェーカ ]
単語を逐一、英語に置き換えるなら、
Lonely Voice of a Man
となります。おそらく 『孤独な声』 という感じと違うと思うんですよね。つまり、感情的に 「孤独な人の声」 というのではない。
ある人から発せられる声じたいが、
誰にも届かずに、孤独のまま、闇に消えてゆく
という感じなのです。つまり、「孤独な声」 と言ってしまうと、日本語としてひっかかりがなく、「孤独な人の声」 なんだろうな、と思ってしまうが、そうじゃないんだ。ロシア語と英語の単語のつながりを見てくださいよ。
孤独なのは 「声」
なのです。「人」 じゃない。
〓この 1988年の当時、ソクーロフは、まったく注目を集めていませんでした。なぜわかるか? 劇場がガラガラだったからですよ。たぶん、あの当時は、映画評論家も、映像関係の雑誌も、ソクーロフの 「ソ」 の字も取り上げていませんでした。おそらく、 「ソビエト・シネマ・フェア」 などというのが、映像評論家の視野に入っていなかったからでしょう。
〓その後も、しばらく、ソクーロフが話題になったという記憶がありません。ソクーロフが、いつごろから有名になったか、アタシにもよくわからないんですよ。
〓しかしね、あの高田馬場東映パラスという映画館だけは忘れません。
ソクーロフを日本で最初に上映した映画館
という栄誉は、あの高田馬場東映パラスのものなんですから。