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24,April(SAT)9:45 AM
またBLUE SKY CAFEにいる。朝食にはバナナラッシーというヨーグルトにバナナが入ったドリクンとベジタブルエッグサンドを注文した。冷たいバナナラッシーがとても美味しかった。
今日はここカルカッタから夜行列車に乗り、ガヤーへ移動する日だ。でも、列車の時間までだいぶ時間的余裕はあった。
ベジタブルエッグサンドも食べ終わり、タバコを2本吸い、今日の予定を考えた。そして映画でも観にいこうかと思いついた。
マーケット周辺を散歩し映画館の前にやってきた。今この映画館で上映されているのは、アメリカ映画の戦争映画とラブコメディだった。インドと言えば、あの大袈裟すぎるぐらいド派手なインド映画を観るべきなのかもしれないが、今から別の映画館を探すのにはあまり気が進まなかった。
そんな訳でこの映画館でアメリカ映画のラブコメディを観る事に決めた。戦争映画を観るよりは幾分ましだと思ったからだ。
映画館の前には既に沢山の人々が入場券を買うために並んでいた。私もその列に入り込み入場券を買った。それは100円ぐらいしかしなかった。館内に入るとクーラーが程よく効いていて気持ちよかった。土曜日だからか席もまんべんなく埋まっていた。席に着くと私の周りからはヒンディー語かベンガル語かは分らないが、とにかくインド人の喋るインドの言語が微かに聞こえてきた。
そして映画が始まった。映画は思っていたよりももっと退屈なものだった。それは私の英語力が乏しいせいかもしれない。時折周りの観客からドッという笑い声がおこった。私は軽くあくびをした。
映画が上映されて1時間程時間が経った時、急に画面が暗くなり、場内は明るくなった。インターバルだ。インドの映画は途中休憩が入ると聞いてはいたが、それは本当だった。一体何の為の休憩なんだろう?
その不可解な休憩は10分程あった。いや、もしかしたら5分だったかもしれないけれど、よく思い出せない。
休憩の間、私は席を外れ館内にあるスナックバーでアイスティーを注文して、ソファに腰掛けタバコを吸った。
しばらくすると上映を知らせるベルが鳴った。私はまた自分の席へ戻り、残り半分の映画を観た。
アメリカ映画のラブコメディをインドでインド人達に混じって観るなんて、なんだか少し妙な感じがした。
クーラーの効いた映画館を出ると、またインドのむわっとした熱気に身体は包まれた。歩かなくても汗は流れてくる。
映画の後はマーケットで手さげカバンを買い、またサダルストリートへ戻った。部屋に帰っても何もすることがないので、私はまたカフェに入ることになった。
カフェではまたリムカを注文した。そして日記をつけた。
24,April(SAT)16:30
少し日に焼けた。新しい革のサンダルのせいで足の指にマメが出来た。ジョーくんやあの日本人の女の子やあの男の子はどうしているかな?と日記に書いた。
カフェで少しだけ時間を潰した後は部屋に戻り、荷物のチェックをした。そしてこれから行くガヤーのことを書いたガイドブックの切り抜きファイルをベッドに寝転びながらただ眺めた。
そうしている間に夕方になった。外はだんだん暗くなってきていた。カルカッタでの最後の夕食はチャイニーズレストランでチキンマッシュルームチャウメンという油っこいラーメンのようなものと、バナナラッシーを注文した。どれもあまり美味しくなかった。
列車の時間は8時過ぎだが早めに駅へ向かうことにした。駅へは昨日チャーターしたタクシーの運転手に送って貰うことになっていた。彼は約束の時間よりだいぶ前から私の泊まっている宿の前にタクシーを止めて待っていた。
宿の使用人に宿泊代を払い、昨日と同じタクシーに乗り込んだ。初老の運転手は車の中で何度も「ガヤの後はバナラシに行くンだろう?あそこは悪い人が多いから気をつけなさい」と私に言った。そして、「君はタバコを吸い過ぎる。タバコは身体に良くない」と私に忠告した。
私は今吸っているタバコを消した。そして外の景色に目をやった。道は少し混んでいて、オレンジ色の街灯が町を照らし出していた。駅へ向かう人の群れはどこか戦後の町を写した映画みたいだった。人々は自分の身体の何倍もある大きな荷物を抱え、うつむきかげんにただひたすら駅へ向かい歩いていた。
何だかそれは寂しくなる光景だった。何故こんな気持ちになるのかは自分でも分らなかった。
ハオラー橋を渡るとすぐハオラー駅が見え始めた。駅周辺は人と車でごったがえしていた。タクシーの運転手にお金を払い、ドアを開け降りようとすると運転手は「気をつけるんだよ」と言った。その言葉を聞き、またょっぴり寂しくなった。
昨日はタクシーのチャーター代の事でこの運転手ともめたりもしたが、今となってはそれはどうでもいいことだった。
その運転手に「ありがとう、またね」と言い車を降りた。
洋服が増えたせいで少し重くなったカバンを肩にかけ、タクシーの方を一度も振り向かないで駅の構内へ入った。
まずは駅員を見つけ私の乗る列車のチケットを見せて、どこのホームへ行けばいいか尋ねてみた。
駅員はインドなまりの英語で「ナンバル、8」と言った。インド人はRの発音をしっかりする。彼はナンバー8と言ったのだ。そのナンバル8と書いてある所へ行き、もう一度近くにいた駅員にチケットを見せ、ここでいいのか尋ねてみた。駅員は首を横にかしげ「O,K」と言った。これももう何度も見慣れたインド人特有の仕種だ。
それを聞いて少し安心した。ここで待っていればいいんだ。時計を見るとまだ7時をちょっと過ぎた頃だった。相当早く駅に着き過ぎた私は荷物を地面に降ろし、その横に座り込んでちょっと日記を付け、余った時間は周りの状況を確認するように、人間ウオッチングをした。
駅の構内は足の踏み場もない程、沢山の人々が列車を待っていた。インド人の大半はまるで引っ越しでもするかのような大きな荷物を持ってその横に座りこんでいた。中には荷物を枕にして寝ている人もいる。それと物売りも多かった。盗難防止の鉄のチェーンと南京錠を売っている人もいた。その人込みの中には勿論乞食もいたし、インド人の修行僧サドゥーもいた。
そして外国人バックパッカーもいた。彼等はたいてい大きなリュックを背負ってインドの服を着ていた。
ハオラー駅は色んな人種の博覧会みたいなものだなと思った。ここでは実に色んな人を見る事が出来た。こんな風にインドの人々を観察している間、私はインドの人々から観察されていた。
彼等は目線を反らすということをしない。気が済むまで私を、私の持ち物をじっくりと見て、それに飽きるとようやく私から目を反らした。
なんだかにらめっこをしているような感じだった。でもいつも私が負けてしまうのだけれど。あの大きくて、鋭く光る目で直視されるとやはり少し怖い。まだインド人に馴れていないのだ。
そんなことをしている間に私が乗るべき列車が到着した。列車が来たのはいいが、どの車両に乗ればいいのかぜんぜん分らなかった。そこで私は駅にいるポーターにチケットを見せて荷物を持たせ私が予約した車両へと案内して貰った。
ポーターに頼んだおかげですんなりと私が今日眠る寝台へと辿り着くことが出来た。ポーターにチップを渡すと、私が外国人だからかもっとチップをよこせと言ってきたが、それを無視し「Thank you」と笑顔で言うと、ポーターは不機嫌な顔をし諦めて帰っていった。
私が予約した車両は2nd AC33 SEAT。クーラー付きで、他の車両とは行き来が出来ない安全な車両だ。2段ベッドが二つあり、横のベッドにはターバンを巻いたインド人男性とサリーを着たインド人女性がいた。二人は夫婦だろう。
そして私の上のベッドには日本人の女の子がいた。私よりだいぶ若い彼女も一人旅で初インドだった。
当然、私達はすぐ打ち解けあいインドの話しで盛り上がった。彼女はこれからデリーへ向かうと言った。それに彼女はカルカッタ滞在中一度も外のレストランで食事をしたことがないと言った。食事はいつもホテルの中で取っていたらしい。それにはちょっと驚いてしまった。
彼女とは1時間ぐらい色々喋ったりした。そして二人共そろそろ眠ろうということになった。私は翌朝5時には起きていないといけないのだ。
しかし、「おやすみ」と言いすぐ眠ろうと思ったがなかなか寝つけなかったので、荷物の整理を少ししてみた時何かが足りない事に気が付いた。それが何かと判った時一瞬冷や汗が流れた。カメラがなくなっていたのだ。しかもそのカメラは姉から借りたコンパクトカメラだった。どこでなくしたのか考えてみたけれど、うまく思い出せなかった。
盗まれたのかもしれないし、もしかしたらタクシーに忘れたのかもしれない。どう考えてもいつなくしたのか思い出す事は出来なかった。ただカメラはもうないという事実だけははっきりしていた。カルカッタで撮ったあの写真達を見ることはもう出来ない。見る事が出来るのは、空港で買った使い捨てカメラの写真だけだ。しかもそれは白黒の使い捨てカメラだ。
カメラがなくなったという事実を理解した時、頭の中ではカメラを貸してくれた姉への言い訳がいくつか浮かんできてすぐ消えた。今夜はあまり眠れそうにない。
つづく。
■インド2日目。
暑さとノドの乾きでまた目が覚めた。時刻は午前6時。部屋の中はむわっとした重たい空気が充満していた。まだ動き出すには早すぎる時間帯だが、二度寝をする気にもなれないので取りあえずシャワーと洗濯をしようとシャワー室へと向かった。
ここの宿のシャワーは水のみ。まぁこの酷暑期のインドでは水だけで十分だろう。シャワーと洗濯をさっと済まし部屋に戻ると元々部屋に付いてあったロープに洗濯物を干した。中庭に面した私の部屋は午後には強い日射しが沢山入ってくるから室内でも十分乾くだろう。
そして朝の散歩へと外へ出ると大きなバックパックを背負った小柄な日本人の女の子が中庭に立っていた。彼女はさっきサダルストリートに着いたばっかりで、部屋を探しているらしかった。
しかしあいにく宿の主人が見当たらない。どうせ私はヒマなので宿の主人が戻って来るまでの間、私の部屋で待っていたらと提案してみた。彼女は私の部屋に入るとすぐ大きなバックパックを床にゆっくりと降ろし、彼女が昨日までいたインドの地方の話しを私に聞かせてくれた。
彼女は一人で4ヶ月もの間インド、ネパールを旅していると言った。旅なれた服装に日に焼けた肌。彼女の身体には大きすぎるバックパック。いかにも旅人といった風貌がなんだか羨ましかった。もっと色んな話しを聞きたかったけれど結局部屋が満室だということが分り、彼女はまた部屋を探すため出ていった。
この日は彼女と別れた後朝食を取る為入ったカフェで、アメリカ人男性と日本人の男の子と話す機会があった。アメリカ人男性はもう何ヶ月もサダルストリートの安宿に寝泊まりしていて、そこからマザーテレサの家へボランティアに通っていると言った。
日本人の男の子は私と同じくインド初体験で、まだインドに馴染めないでいた。彼はこの後バナラシへ行き、そしてデリーで友達と合流するんだと言っていた。
カフェで偶然に相席になった人達とちょっとした会話をするのも悪くないなと思った。皆旅人ばかりで色んな情報を持っていて、私はただ聞くだけだったけれど、それはそれで楽しかった。
私はまだ今日の予定さえ何も決めていないのだ。
朝食の後私は近くのインド美術館へ行き、ただぼんやりと美術品を眺め、その後路上のサンダル売りからサンダルを買い、古本屋みたいなお店からインドポップスのCDとテープを買い、小さなお土産品店でシルバーのリングとピアスを買っただけだ。
この日一日ずっとサダルストリートにいた。
そしてまだ当分の予定は何も立てていなかった。帰りはネパールからバンコクー関空という日程だけが決まっているぐらいだ。
カフェで旅日記を付けようにも、これといって書く事が何もなかった。ただ、カルカッタ→パトナー、と書き、今日買った物の値段を書いたぐらいだ。それにまだパトナーへ行くと決めた訳ではなかった。
殺人的に暑いインドの日差しの中で、私の思考力は低下する一方だった。日がな一日サダルストリートのカフェでインド産炭酸飲料リムカを飲み、タバコをふかし、外の景色を眺めている間に夕方になり、また昨日と同じレストランで夕食を済ますといった感じでインド2日目を終えた。
それに昼間買い物をしても、まだ値段交渉のコツをつかめずにいた。言い値の半額ぐらいかなと思ってもそれよりもっと安くなることさえあったし、かと思ったら10円もまけてくれない事もあった。
私の頭は益々混乱した。一体どれぐらいが適当な値段なんだろうか?インド人の表情を読むことはなかなか簡単なものじゃなかった。彼等はじっとりとした目つきでこちらを凝視し目線を反らすということがない。ここでは値札がついていない物を買う時はかなりの時間と気力がいることを知った。
そして外国人だからって変にボラれたくないという変なプライドが、益々買い物を煩わしいものにしてしまったような気がした。
たかだか100円がここインドではされど100円、100円でドミトリー(相部屋)にも泊れるのに!という価値基準になっていった。
泊まっている宿の値段で食べる場所も買い物も決まってしまうというような変なルールが出来つつあった。
こんな広大な土地で10円、20円の交渉を汗を垂らして熱っぽく語るのは何だか馬鹿馬鹿しくちっぽけな感じがしたが、その考えを変える気にはなれなかった。
でも、勿論たまにはその熱さに負け妥協することもしばしばあった。やっぱりインドでの買い物に慣れるのにはもう少し時間がかかりそうだ。まだ私はインドに馴染んでいない。
翌朝、朝食をとろうといつものレストランへ向かう途中、昨日カフェで会った日本人の男の子と路上でばったり会った。
彼とはこれからの移動の予定を報告しあいすぐ別れた。
朝食は夕べ夕飯を食べた所で軽く済ませた。そして日記に
(Fri)23,April 7:55 AM
今日こそはカーリー寺院へ行って、セントポール寺院に行って、列車のチケットを予約して、夜8時には寝台でガヤーへ、ブッダガヤーへ行こうかなぁ、と書いた。
しかし、ガヤーに行くのは明日の夜になった。そして今日観光に出かけたのは、カーリー寺院とナコーダモスクだけだ。
タクシーをチャーターし観光と列車の予約が出来るイースタンレイルオフィスへ行ったのだが、今夜のチケットは取れなかった。カーリー寺院では足の不自由なというか、片足のない地面を這いつくばるように動いている乞食にいきなり足首を捕まれ驚き、ナコーダモスクでは近くにいたインド人に「靴を脱げ」「髪をショールで隠しなさい」と注意された。そんな訳でどこもあまりのんびりと観光することは出来なかった。
それにタクシーの運転手は私がタクシーを降りようとする度に「ガイドをすると言って寄ってくる人にお金を払ってはいけない」と私に警告した。
この日、一番面白かったことは、イースタンレイルオフィスでジョーくんという日本人の男の子と出会ったことだった。彼はバングラデッシュとインドを行き来し、ボランティアをしながら旅を続けていた。
そんな彼に「いつか、小さなショルダーバックだけで旅に出たいな」と言うと、「僕は今回日本から出国する時、コンビニの袋だけ持って旅に出たよ」と彼は言った。
まだ二十歳そこそこの彼は、文字どおり身軽な旅を実行していた。往く先々で必要な物だけを買い足して行くという、私が理想とする旅を彼はもうしていたのだ。
いつか私もそんな旅が出来るのだろうか?
手荷物のない旅もきっといいものだろうな、と思った。
そして夕方カフェでイスラエル人とドイツ人と喋った時、あまり会話が弾まなくて、自分の英会話力のなさにちょっと嫌気がさした。もっと英語を勉強しないといけないなと思った。
また夜になり、また夕食はカレーを食べ、リムカを飲み、タバコを吸った後はマーケット周辺をウォークマンから流れるドナサマーのI feel loveというガラージソウルを聞きながら散歩した。
そしてインドに来て初めて夜の空を見上げ、月を見た。頭上の月はだんだん満ちつつあった。インドの雑踏をその風景とは不釣り合いの音楽を聞き、人込みをすり抜け、時々立ち止まっては月を見上げるというのは、何だか奇妙な感じがして面白かった。
当然だが、月はどの場所で見ても同じだった。でも目線を落とすとインドの雑踏が目に飛び込んで来る。周りは知らない人ばかりで、一人で夜のインドの町を歩いている。
インドの旅はまだ始まったばかりだ。
つづく。
■マーケットはサダルストリートから細い路地裏に入って右に曲がった所にあった。そこはインドの中流の人が来るような所で表には警備員が立っていた。
マーケットの中はサリーやパジャマのようなパンジャビードレス、クルタという男性用のパジャマみたいな服を売っている店が沢山あった。取りあえずフロアを1周するように色んな店を見てまわり、最終的にはパンジャビードレスを2着買った。2着で800円もしなかったと思う。これで当分着る服には困らないだろう。荷物はあまり増やしたくないし、服はマメに洗濯すればいいのだ。
無事に買い物を終えた後は、今度はニューマーケットの方へと散歩に出る事にした。狭い路地裏を抜け表通りに出るとすぐニューマーケットが見えた。街は混沌としていた。
沢山の車と人が同じように道路を往来していて、そこにはルールなんてものはなかった。いつもギリギリの所で車は人をよけ、人もまたギリギリの所で車をよけた。
もう、何度車やバイクに轢かれそうになったことか。
そんなニューマーケット周辺は活気に満ちていた。屋台が立ち並び、それと同じ通りにブランドショップがあり、通りには道売りが沢山いた。色んな匂いが混じり合っていた。
それは雑多で猥雑だった。しかし、そこでは乞食をみかけなかった。乞食達は外国人観光客が多いサダルストリートの路上に住んでいた。
彼等は赤ん坊を抱いた母親であったり、まだ10歳にも満たない子供であったり、片手、片足、片目がない人であったりした。
気温35度は越すであろう炎天下の元地面に薄い布をひき、棒のように細長い肢体を横たえ、その傍らには赤ん坊を寝かせていた。その姿はまるで枯れ木のようだった。
複雑な気分だった。しかし1ルピー1ルピー(当時3円ぐらい)と言い、いつまでもついて来る乞食達に私はバクシーシ(喜捨)を施さなかった。
正直、皆にあげていたら切りがないし、たかられているというあの雰囲気が嫌だった。殆どの外国人は彼等と目を合わさないよう道を歩いていた。勿論私もだ。
時に喜捨を施している人を見かけることもあったが、それは地元のインド人が多かったように思う。彼等は喜捨を施すことによって徳を積んでいるのだ。
それでも想像していたより乞食の数は少なかった。以前知人がカルカッタに来た時は15名ぐらいの乞食に囲まれて酷い目にあったと言っていたのだが、そんなことは一度もなかった。
私の場合はせいぜい2、3名の子供達にしつこく付きまとわれたぐらいだ。子供達は非常にたくましかった。一度彼等に両腕を掴まれて身動きがとれなくなったことがあった。10歳ぐらいの子供なのだが、それを乱暴に振りほどくにはちょっとした勇気が必要だった。
そんな時、そばにいた大人のインド人が彼等を叱り飛ばし私を助けてくれた。
サダルストリートではこういう光景はよく見られた。人の良さそうな初老の白人男性が一人の乞食にお金を渡してしまったため、それを見ていた乞食達5、6名にアッという間に囲まれてしまい、お金をねだられていたこともあった。
そこに善悪はなかった。
与えたければ、与えれば良い、与えたくなければ、1ルピーも与えない。ただそれだけだった。
そう考えるしかなかった。
そして外で夕飯を食べ夜8時過ぎに宿に戻ろうと宿の入り口まで来た所でインド人女性に声をかけられた。
彼女は「あなたは日本人ですか?」と日本語で聞いてきた。
いきなり薄暗い道でインド人女性に日本語で話しかけられ、少し驚いたが、「そうですけど」と答えると、彼女は「私は今、日本語を勉強しているのであなたとお話がしたいのです」と丁寧に言った。
一瞬、彼女の本当の目的は何だろう?と疑った。こんな時間に女性一人で日本人を探しているなんてどういうことだろう。またバクシーシをねだられるのだろうか。
彼女は手に日本語が書かれた書類のようなものを持っていて、それを私に見せた。そして、私に色々と質問してきた。それは旅人なら誰でも受けるありふれた質問ばかりだった。
20分ぐらい喋っても彼女の意図が判らなかった。結局私が「そろそろ部屋に戻らないと」と言い、彼女との会話は終わった。
ただ立ち話をしただけだった。お金もねだられなかった。なんか不思議な人だった。
部屋に戻るとすぐにファンを付け、ベッドに横になり今日一日のことを思い出していた。そして「あぁ、今ホントにインドにいるんだなぁ」と思った。
前回の旅では高い部屋で1泊1万円近くするホテルや安くても1500円のホテルに泊まっていたのに、今は1泊570円のトイレもシャワーも共同の安宿に泊まっているという現実が少し可笑しかった。
そして、夜遊ぶ場所がないインドの夜は長かった。寝る仕度をし、本を読んでも時間はまだまだ山のようにあった。
それでも日記を書いている途中でいつの間にか眠りこけてしまった。移動続きで疲れていたのだろう。しかし、夜中2時にノドの乾きで目が覚めた。
熱帯夜だった。部屋はねっとりとした湿気を帯びた空気が充満していて、それを天井に付いているファンがカラカラと空しい音を立てかき回していた。そしてノドを潤そうと思って飲んだボトルのミネラルウォーターは生ぬるかった。
身体は益々ぐったりとして嫌な汗をかいた。仕方なくもう一度ぬるい水を飲んだ後、沈むようにベッドに横になり、深い眠りへと堕ちていった。
つづく。

