しばしの間、

コンタクトレンズを封印しようと思う。

自分がコンタクトに変えたのは、24歳の誕生日。青森市八戸市に住んで2年目の5月。

メガネ無しでの生活、視界が広がりまるで裸眼のような感覚。とても感動を覚え、その感覚が当たり前になり今に至る。


なぜコンタクトレンズを封印しようかと思ったか?

コンタクトレンズが危険だ!!という結論に達したわけではない。

それは、

視覚情報に頼りすぎると、他の感覚器の感度が鈍っていくのではないか?

ということについて検証をしたいからだ。

生まれながらに眼の悪い人が、聴覚器の発達で絶対音感を持っていたり(開花したり)、
触覚の感度が上がることにより、手で触ったモノの色の周波数を、視覚野で変換してわかるようになったり、盲目のあんま師は触覚が発達し気の流れを感じやすくなる(気感の発達)。

目が良く見えない、ボンヤリしか見えないと、
脳は過去の記憶を元に情報を出来るだけリアルに認識しようとする。拙い解析度合いを、記憶情報で補って現実世界を把握しようとする。

視覚だけに着目すればそうなるが、その他の器官による電磁波及び振動の変換情報でも補っている。補っているだけではなく、相互に干渉し合いよりリアルに、より簡単に情報処理できるような仕組みになっている。(推測だけど)

簡単に言えば、

鈍った感覚器の感度を回復、パワーアップさせるためにあえて視力を低下させ、鍛え直し超人的感覚を呼び起こす!

という実験です (*゚ー゚*)w

ちなみにこれは今日は書かないけど、自分は嗅覚で勘を使ってきたように思える。

麻雀の際、鼻のムズムズ加減で(あとは指先の温度、ピリピリ加減)、何かと察知し、判断に生かしていたと思う。

コンタクトに変えてから、その感覚が著しく鈍り、視覚情報に頼ることが多くなったように感じる。


また、視覚情報が乏しくなると過去の記憶や、推測による認識で把握能力を補うとすれば、
妄想力、想像力が鍛えられるということにもつながる。
これは変性意識状態をより深くすることが出来るようになるということであり、思えば被暗示性の高い人には視力が悪い人や、視力の合わないメガネをしてる人が多かったように思える。


とにかく、

しばらくの間、視力の低下した世界を楽しもうと思います (*゚ー゚*)w

超人への道は続く。
『ビビッときたら書くブログ』 by nippy



現代は電気があり、街灯があり、室内照明があるのが当たり前の世の中ではあるが、江戸時代辺りまでは、夜が暗いのは当たり前であり、月夜でもない限り真っ暗な夜を過ごしたはず。
そうなると当然視覚以外の感覚器が敏感になる。可視光線(波長 760nm~830nm の電磁波)以外の振動を感じ取る能力が上がる。その振動の中には当然『気』の存在もある。『気配』を感じるというそれだ。
『気』?バカじゃないのー?!と思う方は残念なことだが、単純に感覚器が鈍化してしまっているか、生まれてから視覚野に頼り過ぎてしまっているため、他の感覚器が退化してしまっているのかもしれない。

歴史の流れ上、江戸時代辺りまでは当然のように人々の感覚の中に『気』は存在しうるものとして認識されていたに違いない。

コンタクトレンズ、メガネ、電気、電話、携帯、PC、その他の文明・・・

それらの発達により、確かに生活は楽になり、雑用から解放され時間的余裕も出来た。書ききれないほど科学と文明は人にプラスに働いてきたに違いない。

しかしながらそれと引き換えに、一生物としての退化があったということに気が付かねばならない。

視力を手に入れることにより気を感じ取れなくなり
携帯電話の普及によってすぐ連絡が取れるようになり、離れた相手の気持ちを想うということが減り、心の繋がり、ある種テレパシー的な能力を失い
自動車、自転車等の普及により、体力的なものを失ったり


視覚に頼るばかりで、情報の裏側にあるもの、モノの本質が見えなくなっていることはないだろうか?
視覚に縛られるあまり、本当に大事なものを見失ったりしてはいないだろうか?

ヒトは楽をしたい生き物だ。楽をするために文明が発達したのかもしれない。
誰もが楽をして生活したい。楽して稼ぎたい。楽して恋人を見つけ、楽をさせてくれる人を求めたり。

しかし楽をする、楽を得るということは、同時に自分自身の成長のチャンスを失っているということなのかもしれない。

楽を手に入れると同時に、生物としての能力が退化している。
生きる上で、それを良しとするか、悪とするか。
要はどのような人として、生物として生きてゆきたいか。という考えが判断を左右する。

自分はやはり、
退化の道より、ヒトを超えて、新たなヒトとして進化していきたいと思う。