民主主義的議会政治の最大の問題は「個々人の責任の欠如」だ。
議会が何かを決定する。その結果が非常にとんでもないかとになっても・・・誰もそれに対して責任を取らず、誰も責任を問われることがない。一体破綻した後でも、罪のある政府が総辞職すれば、これで何らかの責任を取ったといえるのか。あるいは連立を変更したり、そればかりでなく議会を解散すればそれでいいのか?一体全体、多数の優柔不断な人間にいつか責任を負わすことができるだろうか?すべての責任は人に結びついていないのだろうか?もっぱら多数の人間の意志と好みによって成り立ち、そして遂行されるような行動に対して、政府の指導的人間に責任を負わせることが出来るのだろうか?
 今日の民主主義的議会政治の目的は、賢人による会議を形成することではなく、むしろ精神的に従属しているゼロに等しい群れを寄せ集めることにある。これに対立しているのがして「行動に対してすべての責任を完全に引き受ける指導者を自由に選ぶ」真のゲルマン的民主主義である。そこに多数決はなく、ただ自己に対して能力と生命を賭けるただ一人の決定がある。>
 



この現代の日本政治の問題点の分析にたいし、的を得た至極まともな回答は誰の文章であろうか?
これはアドルフ・ヒトラー氏の文である。
ヒトラーは決して無能な政治家ではなかった。むしろ優秀すぎるほど優秀であり、視点の高さ、分析力、予見力に突出していた。

超人思想、選民思想を持ち、催眠術にも興味を持ち、演説等にもその技術を応用していた。

上記の文、『議会が何かを決定する。その結果が非常にとんでもないかとになっても・・・誰もそれに対して責任を取らず、誰も責任を問われることがない。一体破綻した後でも、罪のある政府が総辞職すれば、これで何らかの責任を取ったといえるのか。あるいは連立を変更したり、そればかりでなく議会を解散すればそれでいいのか?一体全体、多数の優柔不断な人間にいつか責任を負わすことができるだろうか?すべての責任は人に結びついていないのだろうか?もっぱら多数の人間の意志と好みによって成り立ち、そして遂行されるような行動に対して、政府の指導的人間に責任を負わせることが出来るのだろうか? 』

ここにとても共感を覚える。日々ニュースを観る際に思う違和感を適切に表現している。

現代の日本社会では、政治に限らず、会社、私生活に関しても同様のことが当てはまるのではないか?


『責任を完全に引き受ける指導者』

そういった人物が現れない限り、今後の日本は衰退の一歩をたどり続ける。

小さい子供たちに対し、『責任を取る』という態度、見本を見せなければいけない。
それが大人であるという見本。

国会中継を見ても、責任逃れ発言ばかりが溢れている。ニュース、記者会見でも同様だ。
そのような報道ばかり見て育つ子供達は、『口でうまいこと言って言い訳出来れば、責任を取らなくても良いんだ!』という認識を持ってしまうかもしれない。

そんな大人が増え、それを見て育つ子供が増えて行くと、
いずれ日本は、例の隣国のような何事も責任転嫁をするような幼稚な国になりかねない・・・

それが一番恐ろしいと感じる今日この頃であった。




というわけで今週の愛読書はこの2冊↓(*゚ー゚*)w

我が闘争 上下巻
著:アドルフ・ヒトラー
『ビビッときたら書くブログ』 by nippy『ビビッときたら書くブログ』 by nippy