馬英九総統が「白色テロ政治受難者記念追悼式」に出席 | ひょっこりひょう「たいわん」島/(台湾ブログ)

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台湾週報
馬英九総統は7月15日、台北市介寿公園で行われた「白色テロ政治受難者記念追悼式」に出席し、あいさつを述べた。馬総統は、受難者の名誉回復証書を授与した後、受難者に黙祷を捧げ、受難者の遺族らと記念碑を一周してから、献花した。

 馬総統は白色テロと深い関係にある戒厳令について、「台湾は戒厳令が民国38年(1949年)5月19日より38年間にわたって敷かれた。それより早く民国37年(1948年)10月に中国大陸では先に全国戒厳令が宣言され、当時の内戦はかなり危険な段階にあったが、当時宣言された全国戒厳令に台湾を含んでおらず、翌年の5月19日に台湾が戒厳令下に組み入れられた。戒厳令下の38年間は、中華民国政府が中国大陸を統治していた38年間と同じ長さである。今年は中華民国政府が台湾に移って60年となるが、そのうち38年間は戒厳令が実施されており、戒厳令下の期間に台湾の自由と人権がきわめて大きく制限、抑圧されていたことは疑う余地がない」と語った。

 続けて馬総統は、「なぜ戒厳令が敷かれたのか。もちろんそれは内戦のせいであり、戦争が発生したことによって数多くの人権抑圧が合法化された。これは戦争のたびに起こる現象であり、第二次世界大戦の際には、米国は国内の日系米国人を強制収容所に収監したが、戦後これらの日系米国人が米国政府に賠償を求めた。1941年12月8日に発生した真珠湾事件によって、ハワイの日本人はスパイではないかと疑われたことがあったことからも、戦争の発生が人権や自由を制限する始まりになることが想像できる」と指摘した。

 馬総統は、「いわゆる『白色テロ』は、一般的には民国38年(1949年)から民国43年(1954年)の『華米相互防衛条約』までの期間を指すが、実際には戒厳令下の時期はこれより長かった」と述べ、その後も美麗島事件等、戒厳令時代に自由と人権が制限されてきたとの認識を示し、「私は台北市長の任期中に、白色テロの受難者遺族と協力して、馬場町に記念碑を建立し、六張犁の公共墓地を整備し、秋の追悼祭にも多く参加してきた。私の立場はきわめて明確であり、人権を唯一の基準とし、色の区別はない。赤(共産党)でも青(国民党)でも緑(民進党)でも黄色でも関係ない。重要なのはその過程で冤罪や誤審がなかったかどうかである」と強調した。

 戒厳令の歴史について馬総統は、「ここで強調しておきたいのは、戒厳令には『国共内戦』という歴史的背景があったことである」と指摘し、「後に、経国先生(蒋経国総統)が戒厳令解除と政党結成解禁を宣言したことは、まさしく時代の流れに適応した重要決定であった。あの時代にそうした(戒厳令解除の)決定をするにはきわめて大きな勇気が必要であった。なかには、中共(中国共産党)が台湾への武力行使を放棄していない中で、どうして戒厳令を解除できるのかという人もいた」と振り返った。

まず白色テロとは 228事件以降継続的に国民党の台湾人弾圧が続き 表向きは1949年国共内戦を理由に台湾に戒厳令が敷かれた1987年までのあいだ、「中国共産党のスパイ」「共産主義者」などレッテル貼りをして 台湾人、民主活動家を 逮捕、投獄、処刑という恐怖による圧政弾圧をしたことをいい。それにより2万以上の犠牲者が推定されるがいまだに実態が分からない。
228事件から40年間 後半は民主化運動活動家など外省人の犠牲者も増えたが 終始行われたのは 占領政権の台湾人の弾圧であった。
中共との対峙による政治的緊張もあったのは事実でありが 反共を国是とする共産主義の浸透を防ぐというのは 中国国民党が弾圧したことを正当化するための当時の理由付けであり 真の目的は台湾人を押さえ込むことであったのだ。
実際には 大陸の中共と内通していたひとなどほとんどなく 実際に逮捕、投獄、処刑された人はほぼ100%の冤罪であることがそれを物語っている。
馬はいまだに「国共内戦」を理由にするだけで「台湾人弾圧」には一切触れず 弾圧した当時の国民党の理由付けをそのまま認めているだけで 国共内戦という緊張化だからしょうがなかったごめんなさいと「台湾人弾圧」が目的であったと一切言及していない この無反省ぶりは 今回の演説全てを通し現れ 責任転嫁と誤魔化しによって 台湾人には謝罪しない従来通りの呆れた態度そのままだ。

戒厳令解除と台湾の民主化については、「経国先生は万難を排して決定を行った。戒厳令解除が宣言された1986年10月7日の約2週間前の9月28日に民進党が台北圓山大飯店で結成されたときも、取締りは行われなかった。9カ月後、政府は戒厳令解除を宣言し、その1年後に人民団体法が改正され、野党の結成が認められた。民国76年(1987年)7月15日に台湾、澎湖地区の戒厳令が解除され、11月2日に台湾地区住民の大陸地区親戚訪問が解禁され、台湾全体の統制緩和がスタートした。翌年1月には新聞発行の制限が解除され、登輝先生(李登輝総統)が引き継いだ後は、人民団体法等の関連法の改正が進められ、同時に大法官の解釈によって選挙に関する関連制限が解除された。さらに重要なのは、民国80年(1991年)に李登輝総統が国民大会の『動員戡乱(反乱鎮圧)時期』を終結し、『動員戡乱時期臨時条款』を廃止したことである。この措置は戒厳令解除よりさらに重要なことであり、これより台湾の政治は民主主義憲政に復帰した。後に国会が全面改選され、総統が直接民主選挙で選ばれるようになったのはこの発展があった結果なのである。当時の戒厳令解除は一つのスタートの役割を果たしたのであり、戒厳令解除の後の一連の統制緩和措置はすべてここから始まっているのである」と説明した。


おまけに 蒋介石の手先となり 40年間白色テロの第一線に立ち この恐怖専制政治を指揮した 首謀者蒋経国を戒厳令を解除したことを英断した英雄として持ち上げる すり替え行為は正に歴史の捏造である。戒厳令の後半 中国との対峙も薄れ是を理由に 民主化運動家を弾圧することに国際的批判がやまず 民主化運動の高まりを押さえきれずこれ以上西側諸国との関係を壊したら国そのものの存続が危うくなった為に戒厳令を解除したにすぎず 功績でもなんでもない。
連続殺人鬼が殺人をやめたら 連続殺人を止めた人と褒め称えるこの究極のすり替え 馬英九の厚顔厚かましさには 呆れてものが言えない。

 このほか、馬総統は戒厳令の歴史を繰り返さないため、重要なのは、戦争が起きないようにすることであると指摘し、「戦争の発生は人権と自由を制限するさまざまな口実となる。台湾で唯一戦争が起こる可能性があるのが台湾海峡であり、だからこそ私は昨年就任以来、全力で両岸関係を改善し、さまざまな方法により台湾海峡で衝突が発生する可能性を最小限に押さえてきた。一年あまりの間に10年間中断していた両岸協議を再開し、9項目の協議を締結し、1項目のコンセンサスを達成した。両岸海峡に平和の光が射しこんだのは、台湾と中国大陸だけでない。東南アジア、米国、ヨーロッパ、オセアニア等、いかなる国も台湾海峡に平和の光が射しこんだことに安心し、評価しない国はない」と述べた。

 そのうえで馬総統は「われわれはここ一年あまり中国大陸と接触してきたが、中華民国の主権、台湾の尊厳は一つも変わっていない。われわれに自信と力があれば、それはできることなのである。実際にわれわれがこの道を進めたのは、自由と民主主義への強烈な信念があるからなのだ」と強調した。

【総統府 2009年7月15日】


呆れるほど無反省な馬英九 なんといっても 白色テロ期間中 特務学生として留学先のアメリカで 民主化運動家の学生を監視報告した文章が残っていて その功績で蒋経国に引き上げられた 弾圧側の張本人 そんな奴が自由と民主主義だとは呆れてものも言えない。

この男が今やろうとしている政治は 台湾をスムーズに奴の生まれ故郷に引渡す ネオ白色テロだ!

以上
2009/7/18(土) 投稿
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今 この馬英九を考えるに 日本の鳩山さんに似た脳回路であったと ともにおぼっちゃまで米国留学 マスコミに過保護の様に守られて成り立つ存在だった。