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筑紫山地一回り⑪ 生月島

平戸島に付属している生月島 この機会を逃すと二度といけぬとカーナビをセットして向かう

生月大橋 架橋技術の進歩だろうか 豊かな?財源というかそんなんで結構 日本は小さな島にも立派な橋が架かっている。橋が架かる事によって 日本の海岸線の一筆書きの距離が伸び国土が大きくなることはよいことである。有料。渡り終えて漁港から全貌をカメラに収める。

生月大観音(長崎県平戸市生月町山田免) 舘浦(たちうら)漁港をから山からにゅきりと巨大な観音様の姿がみえたので近影を撮る。
ブロンズ観音としては大きさが日本一とのこと こんなところに日本一があるか!!!っと感動。この観音様は 『世界の平和と海難者および魚介類の霊を追悼し漁船の航海安全を祈念して昭和55年に建立された』とのこと 観音様も願うぐらいだから「海賊対処法案」は当然だ。

山田教会
今回の旅の目的の半分であるキリスト教教会第一発目 地味なところがよい感じです
『九州の教会建設の第一人者である鉄川与助氏の設計により1912年に完成したカトリック山田教会』1912年に完成 現在、生月には100世帯のカトリック信者がいるそうです。そしてこの教会に[トマス西六左衛門]なる人の碑があって
トマス西六左衛門Wikipedia
トマス西六左衛門(-にし ろくざえもん、1590年(天正18年)-1634年(寛永11年))はキリシタン時代の司祭、殉教者、ドミニコ会士、カトリック教会の聖人。日本十六聖人の一人。
両親は敬虔なキリシタンで、1609年に殉教したガスパル西とウルスラ土肥である。彼らの次男として生月島で生まれた[1]。幼少のころ有馬のセミナリオで勉学に励み、同宿(教会や修道院で奉仕する人)になり、1620年にマニラに渡る。1624年、ドミニコ会に入り、『ロザリオのトマス』の修道名を授かる。1626年、司祭に叙階、帰国して迫害に苦しむ信者たちを励まし秘蹟を授け、幕府の役人の目から逃れてきた。しかし、共に司牧に当たっていた同会のジョルダーノ・アンサローネ神父を看病している最中に捕らえられ、長崎に連行された。拷問を受け棄教を迫られたが、彼はそれに屈せず信仰を貫き、1634年11月17日、西坂の丘で逆さ吊りの刑を受け殉教(死去)した。
トマス西は、他の15名(いずれもドミニコ会関係で、前述したアンサローネ神父も含まれる)と共に1981年にマニラで列福、1987年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。これは、1862年の日本二十六聖人の列聖以来125年振りのことであり、しかも日本人司祭として初めての聖人となった。
[1]^ 兄のジョアンは両親と共に殉教した。その墓は、隠れキリシタン達の間で『ガスパル様』と呼ばれ信仰の場所となり、2008年11月24日に長崎で列福された。
両親は敬虔なキリシタンで、1609年に殉教したガスパル西とウルスラ土肥である。彼らの次男として生月島で生まれた[1]。幼少のころ有馬のセミナリオで勉学に励み、同宿(教会や修道院で奉仕する人)になり、1620年にマニラに渡る。1624年、ドミニコ会に入り、『ロザリオのトマス』の修道名を授かる。1626年、司祭に叙階、帰国して迫害に苦しむ信者たちを励まし秘蹟を授け、幕府の役人の目から逃れてきた。しかし、共に司牧に当たっていた同会のジョルダーノ・アンサローネ神父を看病している最中に捕らえられ、長崎に連行された。拷問を受け棄教を迫られたが、彼はそれに屈せず信仰を貫き、1634年11月17日、西坂の丘で逆さ吊りの刑を受け殉教(死去)した。
トマス西は、他の15名(いずれもドミニコ会関係で、前述したアンサローネ神父も含まれる)と共に1981年にマニラで列福、1987年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。これは、1862年の日本二十六聖人の列聖以来125年振りのことであり、しかも日本人司祭として初めての聖人となった。
[1]^ 兄のジョアンは両親と共に殉教した。その墓は、隠れキリシタン達の間で『ガスパル様』と呼ばれ信仰の場所となり、2008年11月24日に長崎で列福された。
なんと 日本十六聖人の一人でございますか・・・・コロンだ方が人生よかったなんて思うわたしには信仰は無理?

塩俵の断崖 (長崎県平戸市生月町壱部)

御崎浦鯨組納場場跡
捕鯨というのは 一大食品加工産業というものらしく 今で言えば大工場跡地ということらしいです。日本で一番だったとか。

生月 鯨太左衛門
相撲マニアといいますか 相撲本を読み漁っていたころ 必ず出てきた江戸の巨人力士
生月 鯨太左衛門Wikipedia
生月 鯨太左衛門(いきつき(いくづき、あるいはいけづきとも) げいたざえもん、文政10年3月21日(1827年4月16日) - 嘉永3年5月24日(1850年7月3日))は、肥前国松浦郡(現在の長崎県平戸市生月町)出身の江戸時代の力士。本名は、墨谷 要作。身長が227cm、体重が169kgあり、日本一の巨漢力士であった。
東京都江東区にある富岡八幡宮に、巨人力士碑、巨人力士手形足形碑があり、その大きさを実感することができる。 1844年(天保15年)番付に張り出されて以降の6年12場所間、ほとんど土俵入りのみの出場であった。
東京都江東区にある富岡八幡宮に、巨人力士碑、巨人力士手形足形碑があり、その大きさを実感することができる。 1844年(天保15年)番付に張り出されて以降の6年12場所間、ほとんど土俵入りのみの出場であった。
生月島出身だから生月だったのかと感慨にふけるのは私ぐらいか・・・・でかいから鯨太左衛門なんだと思っていたら 生月は捕鯨の島と分かり 妙に納得 そういえば釈迦ヶ岳雲右衛門なんて力士もいたなと記憶から出てくる 江戸から明治にかけて日本人が小人化していった時代 なぜか巨人力士が多く出たのも不思議。

大バエ灯台(長崎県平戸市生月町御崎)島の最北 ここでユーターン

タイワンツバメシジミ
環境省の看板に「タイワン」を見つけてご満悦 [人為的な草原管理がなされなくなる中で、生息地が限定されてきている]とのこと 東シナ海繋がりで台湾にも生息しているのだろうか?

宝倉水天宮
カーナビに出てきた鳥居マークで立ち寄る 隠れキリシタンのすむところに地味な神社ありの法則通りである。
以上
2009/4/26(日) 投稿

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