筑紫山地一回り⑧ 平戸港周辺Ⅰと寺院と教会の見える風景ⅰ | ひょっこりひょう「たいわん」島/(台湾ブログ)

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筑紫山地一回り⑧ 平戸港周辺Ⅰと寺院と教会の見える風景ⅰ


平戸城に通じる幸橋を起点に旧街道の趣のある商店街へ進む このあたりの特色かもしれないが 民家の敷地内に道路に接し鳥居が立っている 神社ではあるが 個人所有のミニ神社といったところ なぜこのような個人的神社が存在するのか歴史的背景があったら知りたいところだ。 

この道沿いには 英国商館が立ち並んでいたのだろう 市と銀行の案内プレートがあった。
イギリス商館跡
1613年に設置され、1623年に撤退するまでの10年間、平戸を拠点として日本の貿易活動をおこなった。当初は中国人李但の家屋を借りて商館施設とし、徐々に拡大していった。最終的には対日貿易で成果を上げることが出来ず、商館を閉鎖、日本より撤退する。平戸市


史跡 英国商館跡
(1613~1623)
この一帯は英国商館が設置されていた跡である。エリザベス女王の来日を記念して建てる。
昭和50年10月13日
十八銀行建之


按針の館
イギリス人ウイリアム・アダムスは、オランダ艦隊の航海長として、マゼラン海峡を経て1600年豊後に漂流しました。
日本に着いたのは5隻の艦隊のうちリーフテ号だだ一隻、2年の歳月と481人の乗組員の中で働けるものは十数名という過酷な航海でした。
時は関が原の戦いの年、徳川家康の外交顧問として、神奈川県三浦郡逸見村に知行地を受け三浦按針と名のりました。
平戸の城主松浦鎮信は漂流したリーフデ号の乗組員をマレーのバタニへ送り届けたことで、1609年オランダ商館が建ち1613年にはイギリス商館が設置されました。平戸には堺の商人など多く集まり 西の都として栄えました。
按針は日本と交易する諸外国と公平な立場から商館には住まず 当 木田弥治右衛門宅を住まいとし、在宅中はイギリス国旗を掲げて1620年5月16日57歳にして病に倒れ、遠見の外国人墓地に埋葬されています。当時三浦按針がすまいしたことから 当 屋敷を按針の館とよんでいます。


右の写真は「按針の館」名前の聞いたことある三浦按針 平戸の城主松浦鎮信ってのはなかなか外交上手だったようだ。





商店脇をとおり階段を登り 神社の鳥居を目指す 「天満宮」とあるが名は不明  城主の裁量と天然の良港で瞬間的に栄え 後背地もなくわずかな土地に歴史がコケむしたような平戸の街並みは わずか神社の石段を登っただけであらわれてきた。



神社のならびに 王直屋敷・天門寺跡
王直屋敷跡

1541年、明の海商の王直は、この地に唐風の居宅を構え松浦家
25代隆信(道可)の寵を得て15年間、栄華を極めた所である。
1588年、領主の隠宅として用いられるようになり、印山寺と呼ばれるようになった。

天門寺跡
1550年、ポルトガル貿易船の入港をもって、平戸の西洋貿易が始まった。そして
1561年平戸人とポルトガル船員との間で起こった宮ノ前事件が原因で平戸を去ったが、
2年後再び平戸に戻ったので、松浦家25代隆信は歓迎し、この地にカトリック教会
天門寺(御宿りのサンタ・マリア教会)建立を許可したのである。


写真も多くなったので つづく

以上
2009/4/15(水) 投稿