13)仏心と 「仏に会っては、仏を殺せ」 2004/ 6/24投稿 1078
「南無阿弥陀仏」
死ぬまで人間という生き物は、食い扶持を得ることをしなければいけないもの、生への執着は生命活動そのものである。宗教の存在する意味の核心部分はこの執着と如何に付き合うかを別の視点から教えてくれるものだ。
絶対的存在の一神教の神を信じる人たちだけでなく 限りなく一神教から遠い、生活の中においてあいまいな道徳律の延長にある程度のお天道様と神々と仏にかこまれ一神教はないという意味では絶対神不在の私にも等しく生きることは何か「神」は投げかけてくる。
絶対的存在の一神教は「これでも私の存在に気が付かないか 裏切ることは地獄に落ちること 自分に似せて作った分身 私の側にこられることを許されるか許さないかは 最後に審判しよう」という神へ 生活そのものを神に捧げ 生きるということと神への忠誠、悪い言葉で言いあらわせば この二つを纏める為 かなり合理的という屁理屈の登場でこれを納得させ両立しているようです。生きるということは滑走路的ものととらえ付属物にして解釈している。信じることからの始まりである。
限りなく一神教から遠い人たちの場合 体の中に限りなく小さく植え付けられたもの(仏心)の為 気が付かなくても生活でき 植え付けた仏も気がつけよと強要もせず 働きかけも小さく 何度でも何度でも繰り返しなさい気が付くまで輪廻転生。気がつくことに終わりがある。
性悪という煩悩のとりこで生き 最後の最後に 生きるという作用が消えかかった時に 植え付けられた小さな仏心が作用し 「ああ 性善で生かされていたのだ」と気づくことが出来ればと思う。
仏に会って仏を殺しつづける生き方を肯定するなら こんな考え方だろう。
人民は絶対性善、ブルジョア階級は絶対性悪というマルクス一神教の屁理屈は 生活と教義を纏め上げるための 後付け論理、仏に会って仏を殺さなければ お花畑がそこに出てくる。
以上
2006/4/9(日)投稿