
↑山口 瑠璃光禅寺
大いなる和をといた聖徳太子 その十七条の憲法の一条
一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
公務員の心得みたいなものをこの時代につくっていたわけだ。日本という国はそんな歴史の上にのっている。
またこれをよむと「五箇条の御誓文」が結びついてくる。五箇条の御誓文が フランス革命の影響が遠縁にあたる思想でこれに影響されたものではあるが 聖徳太子のものと この五箇条とを読み比べてみる
一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ。
一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメンコトヲ要ス。
一.旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
一.知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。
「和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。」とは「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」であり
「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。」とは「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ。」こと
そして「人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。」という人はこのようなものだから「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメンコトヲ要ス」ことが必要であるということと同じだ
また「事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」ということは「天地ノ公道ニ基ク」これらの手法は ことが成るすなわち「皇基ヲ振起」をもたらすことになる。
聖徳時代の世からというのもそうだが いわゆる封建時代が終わった時点でさえ ものの道理の通し方、「国と民のあるべき姿」を日本人は継続的にその歴史の中に持っていたということ。西洋哲学に触発されたことと 輸入し取り入れたということは大きく違う。日本の民主主義が西洋からの借り物ではないことをわれわれは考えなければならない。
以上
2006/2/19(日) 投稿