広島原爆投下で亡くなったサイド・オマールさん
1945年9月4日京大病院でサイド・オマールさんが亡くなりました。彼は原爆で京大病院に入院された最初の患者さんで、恩師濱島義博先生が診察されたそうです。以下の話の一部は、幾度か濱島先生自身から聞きました。
太平洋戦争勃発後マラヤでは日本軍による統治が始まりました。オマールさんは成績優秀だったのでしょう、南方特別留学生1期生に選抜されました。1944年広島高等師範学校(現広島大学)へ入学し同年卒業後、1945年4月旧制広島文理科大学(現広島大学)へ進学し教育学を専攻しました。8月6日は留学生寮である興南寮(広島県広島市中区大手町4丁目8)で被爆。
典拠https://ja.wikipedia.org/wiki/サイド・オマール
濱島先生のお話と京都「被爆2世・3世の会」の公式ホームページの記事を合わせると、オマールさんは扁桃腺が痛いので、東京への途中1945年8月30日に京大病院の耳鼻咽喉科を受診。初めて診察を受けた時は、危篤直前の大変悪い状態だったそうです。結果的にオマールさんは、京大病院に入院された原爆第一号の患者だったそうです。京大病院の医師は誰一人としてそれまでに原爆症患者さんを見たことがありません。それよりも原爆症という名前すら知らなかった状態でした。治療方針も定かでなく、輸血しか方法がないということになって、しかも緊急を要するというのでは濱島先生の血液を輸血したのです。幸いに、拒絶反応もなくオマールさんは一見非常によくなったのです。濱島先生は自分の血液で治るかもしれないと考え1日2回と大量の輸血をしたのでが、残念ながら9月4日死亡されました。
京都円光寺境内にイスラム教式の墓標が建てられ武者小路実篤よる碑文が刻まれた石碑が据えられているそうで、一度お参りしたいと思っています。
京都大学医学専門部の卒であった濱島先生は、自分の実力のなさを知り、再度京都大学医学部で再入学し勉学され1950年卒業されました。
京都「被爆2世・3世の会」の公式ホームページから
http://aogiri2-3.jp/hibakutaiken96.html