左右(とにかく)なんとか過ごしてはきた 自立・而立編
山田瑞穗
皮膚病診療:Vol.24, No.10;「私の歩んだ道」1170〜1174, 協和企画(2002)
自立・而立
翌昭和27年に厚生技官に任官し,はじめのうちこそ,医長の大矢全節先生からご指導を受けたが,先生は英語,ロシア語の医学辞典,フランス語の医学史の執筆等にご多忙であったので,実情は自分1人で勉強しながら診療していたようなものであった.
毎日の外来診療も皮膚病は診断,治療とも目でみて,手で触れることができるし,学会,地方会,集談会には必ず演題を出して出席し,討論に耳を傾けて勉強した.当時は病理組織などは誰もが知らなかった.手術はインターンの延長という点もあって,外科,整形外科,婦人科の手術を手伝い,教えてもらって勉強した.
毎日100人以上の患者を診察し,昼食は2時,3時を過ぎ,猫に荒らされて何もなくなっていたこともあった.手術はほとんど毎日2・3例あり,腎臓摘出の日は必ず泊まり,前立腺の手術には難儀したが,まがりなりにも一人前の皮膚科泌尿器科医であったと思う.
忙しい病院勤務の合間を縫って,語学が苦手の私が,日仏会館の夜学に通い,大学とは違って,年齢も社会的身分もいろいろな人たちと,楽しくフランス語の勉強をしたが,のちのちフランス語の論文を書くのに役立った.
自分勝手な興味からWassermann反応について実験していたところ,それを実験家兎梅毒でやってみろと山本俊平教授(
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にいわれ,睾丸にスピロヘータを接種した家兎を提げて,教室のWassermannの技官が実験の手伝いにきてくださったりして,なんとか学位論文に辿り着くことができたが,50ページに余る論文の掲載料を払うことができないし(中略),7年後にはるか僻地,四国の宇和島に赴任した.
http://pop-a.net/mizuho/tonikaku.html
https://www.wakayama-med.ac.jp/med/hifu/derma/contents/professor-furukawa/Professor-1.html