小・中学校生の不登校の推移です。

 

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中学生は、2010年から12年間で2倍。

 

小学生は、12年間で5倍近くに増えています。

 

要因の最多は「無気力、不安」(51.8%)で、「生活リズムの乱れ、遊び、非行」(11.4%)と続いた。

 

「無気力、不安」の更なる原因はデータ上は不明です。

 

「生活リズムの乱れ、遊び、非行」については、昔から一定数ありました。

 

子供の「無気力、不安」の原因を探るために、『義務教育』について掘り下げてみましょう。

義務教育は,国民が共通に身に付けるべき公教育の基礎的部分を,だれもが等しく享受し得るように制度的に保障するものである。

 

 

次に、「義務教育の目的」について、文科省の説明です。

 

義務教育は,国民が共通に身に付けるべき公教育の基礎的部分を,だれもが等しく享受し得るように制度的に保障するものである。

 本分科会の審議においては,義務教育の目的について,主に以下に示すような意見があった。

・義務教育は欧米の発想で,教育が庶民にまで行きわたっていなかった時代に,国の力でどの子どもも学校に行くことを保障しようというもの。社会が豊かになった現在,その概念を考え直すことが必要だが,その際も,1.国家・社会の構成員としてふさわしい最低限の基盤となる資質の育成(社会の統一性・水準維持),2.国民の教育を受ける権利(学習する権利)の(最小限の)社会的保障という2つの目的は維持されるべき。

・義務教育の意義は,1.国として,国民としての統一性や水準の維持,2.多様な変化の時代に生きていく子どもたち一人一人の個性や特性の基礎づくりの2点。

・義務教育においては,1.社会の良き形成者を育てるという「社会の側からの教育」と,2.人生をより良く生きるための土台をつくるという「個人の側からの教育」の両方のバランスが重要。「我」の世界と「我々」の世界を生きることのできる人間を育てることが必要。

・義務教育の目的,目標は,憲法,教育基本法,学校教育法,世界人権宣言,国際人権規約,子どもの権利条約,障害児関係法などに規定された市民権としての教育への権利を保障すること。

・義務教育の目的,目標は,高度に発達した複雑な現代社会において,生涯を人間としてとにもかくにも生きていけるだけの資質能力を体得させること。

・義務教育には,「国家として,あるいは国民としての統一を目指す」という側面と,「子どもや学校の持ち味,個性,独自性を育てる基礎づくり」という側面とがあり,この両者をバランスよく維持していくことが重要であり使命である。

・義務教育の目的とは,「人間力」を備えた市民となる基礎を提供すること。つまり,社会に生きる市民として,職業生活,市民生活,文化生活などを充実して過ごせるような力を育むことと言える。これは,「生きる力」として文部科学省が教育改革の中で提唱してきたことと軌を一にするもの。

 これらの意見を大づかみに集約すると,義務教育の目的については,次の2点を中心にとらえることができるものと考える。
・国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質の育成
・国民の教育を受ける権利の最小限の社会的保障

 

 

最後に書かれている、義務教育の目的の大きな2点について考えます。

 

「・国民の教育を受ける権利の最小限の社会的保障」という部分は、特に議論はないと考えます。

 

従って、焦点を当てるべきは、次の文言です。

・国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質の育成

歴史的には、日本の義務教育は、日露戦争(1904年〜1905年)の役に立ったと言えます。

 

戦争では、規律の遵守、武器使用の能力、忠誠心などが必要ですが、そのための義務教育としては大きな成果がありました。

 

ロシアの兵は、武器を使用する基礎的な資質に欠けていたと分析されています。

 

現代において、戦争を想定しての義務教育は建前上存在しません。

 

では、現在のような「国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質」として、超難解な国語・算数・理科・社会は必要なのか。

 

私は、塾講師や家庭教師の経験もありますが、全く必要のない知識が多すぎるように思います。

 

そもそも、人類の”科学”が現代のように急速に進歩・発展すれば、すべての学科において圧倒的に”学ぶ”知識は増えてしまいます。

 

”難解な知識”は、社会生活では全く必要がありません。

 

そうした知識が不足すると、義務教育で評価されないのでは、子供の学習意欲は削がれるはずです。

 

むしろ、物質的に豊かになった現代で最も必要な「基盤的な資質」は。

 

・社会へ献身する

・社会への恩義を学ぶ

・嘘をつかない

・人を騙さない

・礼節を知る

・他人とのコミュニケーション能力を育てる

 

などの人間形成こそが、国家や社会の形成者に相応しいと思えます。

 

何故なら、物質的に豊かになると、人間は「あり得ないような欲望」に塗れてしまう可能性が大きくなるからです。

 

そうしたことが、結局は国のかたちを壊し、社会を退廃的にしてしまう。

 

そうした傾向は、現代の国の政治活動や社会の経済活動では、頻繁に観察されることです。

 

政治家が利権にまみれて国民を軽視する、企業経営者が金儲けならば法を犯してもいいと考え行動する。

 

具体的に言えば、数限りなく、そのような事例はあります。

 

読者の方には、それぞれいくつもの実例(現実のニュース)が自然に目に浮かぶことでしょう。(あえて、ここでは取り上げません)

 

さらに、国語・算数・理科・社会の全てで結果を出すことを強制させられます。

スポーツを例にすれば。

 

テニスが上手い人が、サッカーが出来ないから「あいつは(体育の)出来が悪い」とは決して言いません。

 

白い筋肉か赤い筋肉か、親の遺伝子はどうかで、運動神経も体格も決まっているのですから。

 

何故、頭を使う勉強は、総合的に習得することを目指すのでしょうか。

 

国立大学に行くためとしたら、少子化なのだから大学は全て国立だけにして、(大学進学希望者を)全入にすればいい。

 

そんなことは、成長期における義務教育では全く必要ありません。

 

例えば、スポーツで言うと、野球の大谷翔平やイチロー、テニスの錦織圭や大坂なおみ、ゴルフの松山英樹や渋野日向子のような、それぞれに得意な分野はあるのです。

 

音楽なども同様で、ピアノ弾けるけどバイオリンが弾けないから、評価しないとはなりません。

 

”高度になり過ぎた”勉強にも当てはめて考えるべきで、そのような義務教育なら、「最低限の基盤的な資質」も身につくはずです。

 

得意な学科から学ぶことで、”努力”も学べるでしょうし、将来への夢や希望も膨らむのではないでしょうか。

 

現在、AIが、東大受験において一番の成績をとれることは実証されています。

 

受験の知識を増やすことは、コンピュータチップの能力に敵うはずはありません。

 

科学の飛躍的な進歩により”平均的に”学業が優秀であることは、大部分の人にとって”社会の役”には立ちません。

 

例えば、現代の教育の頂点が大学受験として、総合的に学業が優秀な東大生と京大生の人気企業の変遷を見ます。

 

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たった22年の変遷ですが、ベスト10を見たら分かる通り、1998年の銀行、NTT、損保、人気メーカーなど、2022年には存在しません。

 

2020年は、圧倒的に外資系コンサル、商社となっています。

 

商社は、昭和の時代から現代まで人気企業なのは、「商売」だからです。

 

商売というのは、日々変化し続けなくてはいけないので、日本の商社マンは優秀で時代に遅れることはありません。

 

こうして見ると、超優秀な大学生は、企業エリートといえますが、その人気企業がたった22年間でも没落していくのは何故でしょうか。

 

端的にいえば、沢山のエリートが居ても、実社会での企業は隆盛であり続けることは難しいということになります。

 

そもそも、現代のエリート教育とは、誰かを蹴落として自分は成功(合格)するということだけを目指す教育に成り下がっています。

 

私の直接知る数百人の”創業経営”の中の、大きく社会に貢献し変革を起こしている大成功者で、東大や京大出身はいません。

 

もちろん、東大や京大生には、大企業(サラリーマン)や官僚として活躍している人が多数いることも事実です。

 

横道にそれましたが・・・、結論として、義務教育は、あまりに高度になった全ての学科の成績がいいことで、生徒たちを評価してはいけないのです。

 

義務教育は、社会に出て役に立たない”難解な”国語・算数・理科・社会を教えるのではなくて、スポーツのように各自の持っている能力を発見し活かしていくべきだと考えます。

 

その前提であれ、「国家・社会の形成者として」学校は楽しく学べる場になり、真の人間形成において必要とされる”資質”も育ち「無気力、不安」もなくなるのではないでしょうか。