渡辺淳一の「うたかた」を

読んでいると、

電話のシーンが沢山出てきます。

この本は、1993年に出版されています。

今から23年前です。

携帯もスマホも無かった頃です。

ここでいう電話とは、固定電話です。

この物語のあらすじ。

作家・安芸隆之は着物デザイナー・浅見抄子と出会った。

お互いに家庭を持つ身ながら、

春めく伊豆の宿、桜爛漫の吉野と京都、

初夏の石狩平野と逢瀬を重ね、深く結ばれる。

そして・・・・・・・・・・・・

ダブル不倫の物語です。

不倫相手への連絡の場面は、

物語の中でも、

ドキドキハラハラさせられる見せ場です。

夫も在宅なのに、

大胆にも安芸(不倫相手)の電話をとる

シーンなどは、読み手も

ハラハラしてしまいます。

といっても、平成世代には、

この意味が理解出来ないでしょう。

電話で連絡を取り合うのは、

自宅か会社しかなかった時代の話ですから。

もちろん、不倫相手に手紙(現代のメール)など、

送りようもなかったのです。

その著しく制約を受けた、

連絡手段だからこそ、

電話の場面は、小説の中でも

重要な見せどころになります。

物語中の、無理して早朝6時に安芸が

抄子の自宅に電話する場面は、

かける方の安芸にとっては、

声が聞きたくてしかたない気持ちを、

押さえきれない。

抄子は、旦那が隣の部屋にいるにもかかわらず

出てしまう・・・。

電話が繋がるだけで、

二人の恋の炎が燃え上がります。

昭和の時代、不倫が淫靡な禁断の恋と

感じられたのは、

連絡手段が限られていたこともあります。

電話をかけるということは、

深い罪の意識と裏腹に、

二人の行動を大胆にさせ、

恋を燃え上がらせる着火剤の役目にもなっていました。




そう考えてゆくと、スマホの時代の「お手軽さ」は、

隔世の感があるのです。

24時間連絡がとれる。

相手の都合など考える必要がない。

メールやラインやSNSは、

不倫を、ふしだらな「罪」ではなく、

「お手軽な恋」に変えてしまった

といっても過言ではありません。

スマホは、不倫の文化や不倫の価値観を

根底から変えてしまったのです。

昔、既婚者の不倫は、

一旦家庭に戻ってしまえば、

家庭という、外界と遮断された

神聖ともいえる空間がありました。

それが、スマホの出現で、

家庭の中まで、

気軽に不倫を持ちこめてしまいます。

日曜日や休日であろうと、

夫婦がセックスをしてる時にでも、

不倫を感じられるようになってしまった。

そうなると、人の意識は、

不倫に制約を感じにくくなる。

本来守られるべき家庭が、

守られなくなってしまうのです。

この気軽さが、エスカレートすると、

留まることを知らない恋の呪縛に

縛られてゆきます。

つまり、不倫を正当化しようとしてしまう。

たとえば、独身の女性が、

ある独りの独身男性を奪い合うということは、

一般的にありえる行為です。

それと同じようなことが、

不倫でも起こり得るのです。

不倫なのに、

奥様から恋人(旦那)を奪えるような

錯覚に陥ってしまう。

家庭内に、不倫を持ち込むことで、

家庭にいても、

自然に恋人のことを考える時間が、

大きくなってゆきます。

不倫相手とスマホでやり取りしていれば、

目の前の家族に対して、

気持ちは上の空になってしまいます。

結果として、

家族よりも恋人との時間が

心の大半を占めることになるのです。

そして、大きな勘違いが起きます。

家庭よりも恋人との時間が楽しいと

同等に考えようとしてします。

甘酸っぱく刺激的な不倫を、

安定した家庭の中に持ち込めば、

心はより刺激のあるものを

求める方向に走ることは否めません。


そんなことは、全く間違っています。

それではまるで、

理性のない野獣のようになってしまいます。

不倫が、まるで独身の恋と同じように、

一途に考えて走り出してしまうのです。

つまり、ブレーキのない車を、

高速で走らせるようなイメージです。

危険極まりない「恋」となります。

かといって、不倫を否定しても仕方ありません。

スマホという、とんでもない便利なものがあるのですから。

しかし、それでは、便利な道具に操られ、

人生を破壊されてしまうことになるのです。

まるで、核分裂を平和に利用しないで、

戦争に利用してしまうことと同じです。

家族を捨て、家族を失うほどの力が、

スマホにあると心得ることです。

スマホという便利な道具は、

あくまでも道具なのです。

その道具には、

大切なものを失うほどの

魅力は決してありません。

スマホという道具に、

心を操られてはいけないのです。

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