自分らしく、という覚悟。 | Festina lente!〜悠々として急げ〜   

Festina lente!〜悠々として急げ〜   

日々の希望は、フィギュアスケーター羽生結弦さんの存在。さまざまなこと。さまざまな幸せについて。

 

 

 

Twitterの画面が流れて行く。

 

そこに書き込まれている文字から、期待、不安、さまざまな感情を

読み取ることができる。

国や言葉が違う人たちも、違和感なくそこにいる。

そのざわつきは、深夜、いや、朝まで続いた。

 

そして、待ちにまった時が来た。

ゆづの新FSの情報解禁。

迷う事なく『SEIMEI』を選んだと聞いたとき少なからずショックを受けた。

 

まったく、どこまで厳しい道を行くのだろう、と。

 

以前に使用した曲だから、安全策と言われるのは想定済み。

五輪連覇のために守りに入ったと言われるのも想定済み。

 

でも、それが全く見当違いなことは、もうみんな気づいているはずだ。

 

世界最高点を叩き出した演技を、さらに超えることが前提と、

どれだけ大変なことを、さらりと口にするのか。

 

同じ曲なら比較されやすい。

同じような点を取っても、進歩がない、と思われやすい。

だから、構成点を上げて、上げて、進化を続けるしかない。

少しの振り付けの違いに、甘んじることはできないのだ。

 

 

そこまでしてでも、ゆづが五輪で演じたかった『SEIMEI』。

 

 

2016年3月。

ボストンワールドで銀メダルに終わったゆづは、

表彰台で全身が青白く見えた。

今考えると、それは、内なる炎が燃えていたように思う。

目を細めて、やわらかな笑顔を見せていたけれど、

それも、瞳の奥で燃える、冷たい青い炎を見せないためだったのかもしれない。

 

勝利を目の前にして、失敗からそれを逃した悔しさ、情けなさ。

世界最高点の演技を持ちながら、てっぺんから自ら降りたような結果。

さまざまな感情がゆづから溢れ出てくるようで、

私たちファンは、少しでもそれを受けとめようとオロオロしていた。

 

でも、当たり前のように、何もできなかった。


 

表彰式の後、

上のほうをじっと見て、胸に手をあてて深々と一礼、

リンクを去って行ったゆづ。

それが、日の丸に向けてのことと気づいたのは、一瞬後だった。

そして、それが『SEIMEI』との別れとなった。

 

日の丸を真ん中に掲げたかっただろうなーー。

 

切なかった。

それは、単に勝てなかったからではない。

この『SEIMEI』で世界一の冠を取れると信じていたゆづを、感じていたから。

 

 

だから。

今回のFSの選択には驚いたものの、いま、とても嬉しく思う。

五輪という最高の舞台、とんでもなく高い場所に上がるために選んだ相手は、

やはり『SEIMEI』だったのだと。

 

 

ゆづが言う、自分らしくいられる曲、ということは、

挑戦し続ける彼の欲求に応えてくれるということ。

さらなる進化の可能性を秘めている、特別な作品なのだ。

 

「昨日までの自分を超えたい」というゆづにとっては、

これはきっと、「攻め」というよりも「欲求」なのだろうと思う。

自分が満足できる、自分らしい演技をしたい、ひたすらその想いで選んだのが

『バラードNo.1』と『SEIMEI』なのだ。

この2作品には、オールラウンダーのゆづだからこそ、

表現できる世界観があると感じる。

 

「自分らしく演じられたら、誰にも負けないーーー」。

 

そんなゆづの強い想いが伝わってくる決断だった。

そしてそれは、ともすれば不安に押しつぶされそうな自分に勇気をくれた。

 

ついに始まった五輪シーズン。

さあ、来年の最高の笑顔まで、しっかり見届けよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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