ゆづの、どんな表情も好きだ。
闘争心むき出しの顔、くしゃくしゃっと笑う顔、
何かを考えているときの無防備な顔、
たとえ顔が見えなくても、
その身体、その動きのひとつひとつが
私たちの心をかき乱し、訴えかけてくる。
そこに、ゆづ、の存在を感じられるから。
多くのファンにとって、動いているゆづがいちばん魅力的である。
しかし、その一瞬をとどめる写真にも、それなりの存在価値がある。
とはいえ、ゆづの写真さえ載せればどんな雑誌も売れる、と言われると
違和感しかない。
私たちファンが写真に求めるものーー。
それは、記録ではなくて記憶の中のゆづだ、と私は思う。
あのとき、こんなに楽しそうだった。
あのとき、こんなに辛そうだった。
あのとき、こんなにかっこ良かった。
あのとき、こんなに可愛かった。
写真を見て何度も思い出す。何度も感情がよみがえる。
写真がいろいろなことを語りかけてくる。
だからこそ、1枚1枚の写真が大事なのだ。
笑っていなくても、後ろ姿でも、ゆづらしさが伝わってくるものを求めているのだ。
高速連写した中から、適当に切り取ってきた写真。
ゆづの人となりを理解し、ゆづらしさが表現されている写真。
技術的なことなどわからなくとも、私たちは容易に見破ることができる。
そこに、ゆづへのリスペクト、愛情があるかどうかを。
ちゃんと私たちは感じているし、感じるままに、選んでいる。
記事も然り。
知識をひけらかし、結論ありきで独りよがりの文章は
日記にでも書くのがふさわしい。
それを覗き見したいと思うファンは誰もいないだろう。
理解できないことを隠そうとする文章は、
攻撃的になりがちなことを私は知っている。
嫌われていると感じたら、先に嫌いなのはこっちだと言い出す人のように。
やれやれ、だ。
だから、写真と同様に、私たちは記事を選ぶ。
そんな悪意を受け取らない、読まない自由もあるからだ。
フィギュアスケートは芸術だ。
ゆづが新しい扉を叩き、開放した今、その歴史が大きく変わろうとしている。
今いちばんドラマティックな読み物があるとしたら、
それは、刻々と更新される現実の記録だろう。
もしかすると、数字の並ぶプロトコルが、ゆづの凄さ、素晴らしさを
いちばん雄弁に表しているのかもしれない。
それでも、1枚の写真、1本の記事が、
かけがえのない記憶をより輝かせてくれるのも事実。
だからこそ、そんな幸せな出会いを期待して、また新しい雑誌を手に取ってしまう。
その写真に、その文章に、「ゆづらしいゆづ」の姿を求めて。
それがどんなものなのかは、さて。
知りたければ、作り手の皆さんに、どっぷりとゆづにはまってもらわないと。
(ゆづで売ろうとするなら、それは基本姿勢だろうが!という本音はさておき)
個人的には、「ゆづの顔が見えそうで見えない写真集」があったとして、
そこにゆづらしさがちゃんとあれば、喜んで買ってしまう。
そして、それはきっと私だけじゃないはずだ。
× ゆづの写真、記事ならばファンは喜ぶ。
◎ゆづらしさのある写真、記事ならばファンは喜ぶ。
微妙な、されど、とても大きな違いなのである。