4月からハピ助は、いよいよ年長の歳になった。




2歳から始まった市の母子通園


最初は、本当に私から離れられなくて、抱っこばかりで、椅子にも泣いて座れなくて、給食は私の膝で食べていた。



その頃オチヨはまだ幼稚園児で、絶賛登園拒否中で……


オチヨが休めばハピ助もお休み。

オチヨの園バスに合わせて、ハピ助は登園できてもお昼に途中降園し、思うように通えない日の方が多かった。


それでも、あの時も今も、オチヨと過ごす日々がハピ助にとって最高の療育で、オチヨの心の成長にも必要な時間だったと思っている。









ただ、私には、どうしても心残りがある。


それは、オチヨが幼稚園に入り(当時ハピ助は0歳)、園バスに乗ることも、登園も泣いて嫌がっていた時、「すぐ慣れる」「慣れるまでの辛抱」って考えて、背中を押し続けたことだ。



周りのママから「最初だけよ」と言われれば、そうなんだと思った。

最初だけの子もいる。

すぐ慣れる子もいる。

慣れるまでの辛抱だった子もいる。


でも、オチヨはそうじゃなかった。





結局オチヨは園バスで泣かなくなったし、登園拒否しながらも最後まで通ったけど、1度も「幼稚園楽しい!」と言うことはなく、1番楽しみにしていたのは卒園式だった。


そんなオチヨだから、当然小学校も不安いっぱいのスタートで、入学式からボロボロ泣いていた。



それでやっと私は、オチヨが安心するのが先だと自覚して、オチヨが自ら「大丈夫」と言うまで、登下校に付き添うことを決めた。

まずはオチヨだ。オチヨの自立を優先しよう。

そうして丸1年、一緒に登下校した。






ハピ助の母子通園は、約2年、オチヨの送迎に左右されながらの登園だった。






でもね、そしたらね、オチヨが「学校楽しい」って言うようになって、少しずつ自信をつけて、すごくいい顔になっていくのがわかったんだ。





そんなオチヨとの経験があったから、ハピ助が全然私から離れられない間は、それなら一緒にいようって思えた。


家で一緒に過ごす時間を大切にして、園での楽しみを一緒に見つけていこうって。






オチヨは2年生に上がると、すっかり自信をつけて1人で登下校をし、私から離れていった。


次はハピ助だ!

ハピ助の自立のために出来ることをしよう。


この時ハピ助は4歳。年中でやっと周りと同じように登園できるようになった。




1日登園できるようになっても、私が離れれば泣くことに変わりはなく、それでも、今まで出来なかった午後の母子分離の時間を経験する中で、少しずつ少しずつ涙が減っていった。


10月頃からは大人との関わりを楽しむようになり、母子通園の他に、母子分離の事業所も通所することを決めた。



どちらの事業所も、泣いては側について、出来ることは背中を押して、泣いて後戻りしたらまた側についてを繰り返して………



そして今年度、5歳年長で、ハピ助もオチヨと同じように自信をつけた表情を見せるようになったのだ。





私から全然離れられなかった2人が

今年度は家から一歩外に出て、お友達や大人との関わりを楽しんでいる。









オチヨを育てて、子ども1人1人によって、声かけややり方が違うことを知った。


それは親でも、場数を踏んで試して行くしかなくて、軌道修正しながら寄り添っていくしかないのだとわかった。


子どもが壁にぶち当たる時は、一緒に乗り越えるチャンスなのだと思えた。




ハピ助を育てて、強く感じたことがある。

それは、関わってくれる先生方が、ハピ助と私達家族に寄り添った方法で一緒に並走してくれることだ。


そのおかげで、私も自分の希望を伝えて子育てができて、ハピ助に合ったペースとやり方で成長を見守ることができている。


『一緒に子育てをしてもらっている』と強く感じ、沢山の手を借りて、沢山の大人と関わる子育ては、親も子も、心が豊かになることを知った。





2人の子育ては、同じようにはいかなくて、一緒に進められないことも多いのだけど。

2人から沢山のことを教わって、私も一緒にここまで来れたことが、本当に嬉しい。

一緒に過ごした時間も、自信をつけて離れていく姿も、どちらも宝物のようにキラキラして見える。







市の母子通園は、就学したら卒園。

どんなに通いたくても、先生に会いたくても、給食を食べたくても、3月には卒園だ。





ねぇハピ助。

こんなに楽しい場所と出会えたのだから

元気いっぱい、1日でも多く行けたらいいね。



(帰宅後は、とても満たされた笑顔を見せてくれるよ)