TRIUMPH TWIN | kenbouのブログ

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TRIUMPH TWIN-MODELS

(タイトルリード)
傑作エンジンの誕生の陰に隠されたエンジニアと経営者の人間模様。

(本文リード)
トライアンフの歴史は、130年も前に始まっていた。長く、そして魅力的な物語である。それは、大まかに二つの世代…ベッドマン(Bettmann)時代とターナー(Turner)との時代だったと言える。ベッドマンの時代は1885年から始まり、ターナーの時代は1936年から始まった。ちなみに、ベッドマンはドイツ人。ターナーはイギリス人だった。

(本文)
 トライアンフは、言うまでもなくブリテッシュモーターサイクルを代表する存在。最も早い時期から今日に至るまで…いや、正確には何度かの復活を経て今日までイギリス車の中で最も長い歴史を刻み続けている。その中心に永らくあったのが、バーチカルツインのモデル達だった。
 トライアンフは、初期の時代から、どちらかと言えば高級車としてではなく、十分な性能をリーズナブルな価格で手に入れることの出来るポピュラーなモデルとして支持されてきた経緯がある。例えば、ワークスチームによるレース活動も特に活発という訳でもなく、マン島TTレースや世界GPでの戦績を観れば最たる成績も無くライバルメーカーの活躍の陰に隠れた存在でしかなかった。
 それでも、ライアンフが長い期間に目覚ましい販売実績を残して来れたのは、広い顧客層に向けて信頼性の高さをアピール…要するに、高性能と扱いやすさを両立したモデルであったということに尽きる。これは、庶民にとっても、或は業務で使用する官憲や会社などにおいても、とても重要なポイントとなっていたのだ。そればかりでなく、チューニングする為の素材として…クラブマンレーサー達にとっても身近な存在と成り得たのだった。
 未だに、多くのエンスージャストに支持されているトライアンフのバーチカルツイン・エンジンは、エドワード・ターナーの手によって設計されたものだった。1937年のスピードツインに端を発して、’80年代まで基本設計を共通とする直列2気筒は、まさに…世界中のバイク乗りを虜にしたと言っても過言ではない。
 名エンジニアとして知られるターナーの時代は、いわば…50年以上続いた創設者ベッドマン体制が陥った経営危機からの救済の歴史でもあった。ベドマンには、二人のパートナー、マウリッツ・ヨハン・シュルツとクロード・ビビアン・ホルブロックが、又…エドワード・ターナーには後援者であるジョン・ヤング・サングスターが控えていた。
 サングスターは、聡明な実業家でありエンジニアでもあった。ベッドマンの会社が危機に陥った時に、サングスターはトライアンフを買収。当時既にサングスターが所有していたアリエル社で働き、有名なスクエアフォーを始めとしたエンジンを設計していたターナーは、トライアンフ買収の際に同社の経営者として抜擢されたのだった。ターナーは、エンジニアとして素早く行動し、世界のモーターサイクルの基準を変えたスピードツインやタイガーカブなどヒット商品を産むこととなった。
 初期のツインエンジンは、1909年にバークレイ工場での試作に続き、1913年にはプロトタイプが製造されながら、初と成る量産モデルの発表には至らず、、それから20年もの永きにわたり待たされることとなった。バル・ペイジがデザインを手がけたこのエンジンは、量産モデルとしては短命に終わった。
 1933年7月に発表されたペイジのツインは、外観も構成も堅実なデザインだった。646cc直立2気筒OHVで、ソロ走行よりもサイドカー仕様として評価され、人気モデルとなることもなく1936年には製造ラインからも外されることと成った。
 その後、トライアンフの権力を握ったターナーは、工場を運営しながら…最初は単気筒のタイガー、次に彼自身がデザインしたスピードツインをリリース。瞬く間にトップデザイナーとしての存在感を内外にも示すことと成った。
 スピードツイン(Speed Twin)は、1937年7月29日号の“モーターサイクル”誌で大衆に公表されている。その全く新しいスタイルのモーターサイクルは一躍人気モデルとなり、国内外でブームを巻き起こすものとなった。会戦となるその2年後、他社よりは10年或はそれ以上前に“ブリテッシュ・バーチカル・ツイン”を発表し、他社は到底すぐに追いつける状況では無かった。
 この499ccOHVツインは、ターナーの特徴あるデザインで2つのメリットが与えられていた。先ずは、小型であり軽量…そして構造がシンプルであった。これは、設計当初から明確な狙いを持っていないと完成し得ないものであった。こうしたメリットを最大限に生かして、スピードツインは実際に良く走った。性能と耐久性の両立を多くのユーザのもとで実証した。又、これに留まること無く、ターナーはより多くの大衆層に向けて新たなモデルの設計を画策していた。このターナーのたゆまぬ意欲がトライアンフの長期に渡る成功の礎と成った重要な理由だった。ターナーは、ミステリアスなまでに優れた才能をここでも発揮したのだった。
 驚くべきことに、スピードツインは…その名があったにも関わらず、当時、高価だがポピュラーであったツインポート単気筒だった思われ続けていた。エンジンが小型であり、標準的な単気筒モデルのサイズと殆ど変わらない印象だったからである。しかも、バイクそのものはライバルメーカーの単気筒モデルよりも軽く、コストは僅か5ポンド余計にかかっただけだった。エンジン構成もシングルと同じくらい単純で、点火間隔に合わせた360度クランクシャフトが無ければ、シングルキャブとツインシリンダーマグネットの使用は出来なかったであろう。以後、全てのトライアンフツインは、例えミッション一体構造と成った時でさえ、このオリジナル・レイアウトが守り続けられた。
 エドワード・ターナーがチーフデザイナー且つCEOとして移籍したのは1936年のことである。短気で独裁的な傾向もあったと言われる彼は、移籍後僅か一年で、その後の50年をトップとして君臨し続けることとなる。全く新しいモーターサイクルの典型を造り上げてしまったこととなる。
 そして、懸命且つ着実なマネージメントによって効率的にトライアンフ社を経営した彼は、不可能を可能とすることを期待され、時にはかなりのストレスの下でもそれを実行した。よく見ると、スピードツインのコンセプトは、彼が古巣で製品にしたアリエルのスクエア・フォアの2気筒分の構成に非常に良く似ている。彼は、アリエル時代から培った技術的ノウハウをトライアンフという新天地で開花させたさせたという図式に成る。その彼の才能を見抜いていたサングスターは、ターナー同様に懸命なエンジニア上がりの経営者だったと言える。