先日、アナザーエナジー展に行ってきたことを日記にかきました。その続きなど。




このお三方はお言葉がわたしに響いたので、作品だけでなく紹介のところも写真を撮りました。




 






先の日記には書けなかったのですが、、ずっと私の中に残っていることがあります。



それはミリアムカーンについて。
彼女の作品に触れてから、わたしの中にとても残るものがありました。それはどちらかというと、あまり好ましい感想ではないだろうし、触れないでいた方が波風をたてない。と思っていました。
が、だんだん、それは違うかもしれないなぁとも。
わたしの中に残ることすなわちそれはすでに、彼女からもたらされた影響であり、それこそがアートに触れた化学反応だと思ったから。



普段、いろんな反応があってよい、どれもこれも化学反応なのだ、とおもいながらも実践していないな、と。



ミリアムカーンについて、誤解を恐れず、おもったことを思ったまま書きたいとおもいます。大げさですが、そんなにディスるわけでもないので肩透かしだったらごめんなさい。




ミリアムカーンの作品は、ダイレクトでした。
インタビューも大変興味深く、この人はかろうじて人間にみえるだけで、とてもピュアなエネルギーそのものにみえる。半分、無意識の氷山のような。わたしがみたのは作品とインタビューだけだから実際の、日常の彼女の顔は知らない。でもアーティストの彼女はそう見えたということ。そしてアーティストと日常の顔が同じそうだな、という印象なだけのこと。



わたしは、ご存知のように?メルヘンファンタジー脳で少し受け取りやすいところがあるので、彼女の作品は怖くてあまり得意な方ではありませんでした。
それだけ作品に圧と迫力と深淵さがあってすごいということです。



※アナザーエナジー展のチケットはミリアムカーンの作品です。実物は本展では小作品といえるサイズ感で、びっくりしました。このサイズだったのかと。







ミリアムカーンのインタビューがとても興味深く、かつ残るものがありました。




文章と表現について、です。
彼女が文章について批判をしたわけではなく、ただわたしがそれについてインスピレーションを膨らませてしまっただけなので、けっして先入観をもたれないでください。



そういったものは様々な場面で出会うことができます。芸術界、音楽界、…見たまま、感じたものを文章化すると陳腐化する。そういう、あまりダイレクトにはみな言わないけれど、根底にあるもの。



わたし自身、最初は絵が大好きで、成長とともに詩も大好きで、国語や文章をすごく好きだと感じていました。今はたまたま絵や身体表現の方が近しくなりましたが、今でも詩は大切な存在です。そんな自分ですら、ことばは時に語りすぎる。沈黙は金であるな、と思うときもあります。



ですが、見えないものの存在について思考を巡らせ始めた今はどうか。
みえる、ことですらもはや物質の延長のように感じるときがあります。



そうなると、みえるよりも感じる、感じることにはなんの制限もなく媒体を選ばないと思えてきます。



それで結局なんなのか、というと、なんでもいいんだと思うのです。



表現する人にとってfitしておれば、受け手はその時々の受け取りたい段階で受け取る。




表現する自由、受け取る自由、両方の自由があると思うのです。



例えばそれが政治的なインスタレーションにみえても、それはその人の表現であって、それに共鳴する人が共鳴しただけの話。アートとはそういうものではない、とアートをカテゴライズすることによって、本人自身を狭めていることにはならないか。わたしからみたら、宇宙に行く人も、数学の計算をしている人も、f1種じゃない種を残そうとしている人も、みんなアーティストにみえるけど…




アナザーエナジー展をみて、もやもやしていたもの、多分絵と同じくらい文章も好きだから、そのどちらも素晴らしいまま、違いなど微々たるものに左右されず、好きなものが好き、な世界であるといいなぁというところに着地しました。



ここまでお付き合いいただいた方がいらしたら、ほんとにありがとうございます。
なんとなく、今日は書きたい気持ちでした。
後で、いかんな〜と思ったら下書き保存してしまうかもしれません。