仁元堂のつぶやきにようこそ。

今回は久しぶりに「臨床動作法」について。

 

 

動作法については

こちらの記事で書いています。

 

私の知識が少なかったので、
たくさんあるはずの心理支援のためのツールを、
あまり知りませんでした。

そして、
それはあまり多くの人に
知られていないことだと思います。

例えば
「絵画療法」とか
「箱庭」とか、
そういうものもあるし、

「認知行動療法」などもある。
(もちろんこのあたりは知っていますが)

絵画療法の中にもいろいろな種類があって…。

一般にはあまり
知られていないことではないかと思います。

…ましてや、
こころの状態を支援してもらうのに

カウンセリングに行って、

「今日何を話したの?」と聞かれて、

「絵を描いてきた」と答えたら、
「何を遊んでるんだ」と

言われそうな気もします(笑)


きちんとした理論背景や、
治療計画に基づいた行動も、
理解と同意がなければ

「遊び」になってしまうこともあるかもしれません。

もちろん「遊び」の中にも
たくさんの治癒的効果があるのですが…。

臨床動作法もしかりで、

からだを動かすことと、
こころの動きに変化がある
ことについての

理解と同意は
なかなか難しいものがあるかもしれません。

そして、そのことが

支援してもらいたい人にとって、
どんなメリットがあるのか、


というところも、
とても大事なポイントだと思います。

大学の授業の中で、
こんな言葉を伺いました。

「間主観的共感」や
「間身体的共感」


例えばそれは、
自分のことではないのにもかかわらず、

話を聞いているうちに
自分のことのように感じて

共感(以上の)体験が起こったときに、
相手にもそれが伝わって、

お互いの間に
「同じことを共有している」感じがある
ということ。

誰かのこころを理解したいとき、
いくつかの方法があります。

一つはもうストレートに
「何を考えているの?」と聞くこと。


でも、これにはいろいろ問題があって、

当人にも何を考えているのかわからないこともある。
「あ、ぼーっとしてた」

ご本人が教えてくれないこともある。
「別に、大したことじゃない」

聞かれることに
不快感を感じるときもある。
「あなたに教えなきゃいけないことではない」
「放っておいて」

本当のことを言わないこともある。
「(本当はあなたが嫌いだということを考えていたけど、
 それは言えないから)
 あぁ、晩御飯何食べようかと思って…」

などなど。

一つは推測すること。

彼はこんな様子だったから、
前後の様子から見て、
今までの傾向から見て、
こう考えているに違いない。

結構な確率で当たることも多いけど、
後で聞くと、

「え、あの時本当はそんなことを考えていたの?!」
と思うこともある。

例えば、
「最近彼女に振られたから、
きっとさみしさに耐えているんだろうな」

と思っていたら、

「他に好きな人ができて、
その人のことを考えていた」


なんてこともある。

「間主観的共感」は
誰かが嬉しくなった時に、

自分も同じように「自然に」嬉しくなるようなこと。

自分は何か嬉しくなったのではないけど、
一緒に嬉しくなってしまう。
…そんな経験ありますよね?

でも、実際に何か出来事が起こったときに、

自分でもその感情を理解するには
すごく時間がかかり、

自分の感情を言葉に表現することは
本当に難しい。


それが、からだの状態を知ることで、
意外にうまく伝わるもので、

それを使ったものが「臨床動作法」
ではないかと思える。


しかも、私は整体師として普段から
「間身体的共感」を感じている。

例えば動作法の中に
「腕上げ」という課題があります。

何をするかといえば、
腕をあげるだけです。

セラピストが
クライエントと一緒に腕をあげているときに、
少し止まった瞬間があったとする。

その止まった瞬間に

何を感じていたのか、

何を思って腕を止めたのか、

そこに何らかの感情や痛み、
抵抗などがある。

そこを扱うことによって、
「間身体的共感」がおこり
「こころを癒す」ことにつながっていく。

2017年4月、私の祖父が亡くなりました。

90歳の誕生日を迎えた翌日でした。
そして「老衰」だと書いていただいたようです。

雄弁な人ではなかったし、
黙々と働いている人でした。

でも、ユーモアもある人で、

私の子供のころ年末に
みんなで紅白歌合戦を見ていると
「来年まで寝てきます」
就寝しに行く人でした。

60歳代に交通事故で、
からだが上手く動かなくなり、
頭部を打ったことによる

前頭葉症候群になっていた
可能性がありました。

前頭葉症候群とは、
頭を打ったなどが原因で
前頭葉の機能が不全になって、

怒りっぽくなる、
ぼーっとしている、
癖が強調される、
理性的な行動ができなくなる


といった症状が出ます。

ここ2年くらいは、
転倒で頭を打ったために
傾眠状態にあったこともあり、
からだは自力で動かせなくなっていました。

その祖父に、
私は動作法をしていました。

のけぞって、
肩を前に巻き、
体を小さくして力を入れている祖父に、

「頑張らんでもええよ」
と声をかけつつ、

力を緩める方向にそっと動かしていく。

そうすると私の言葉は
届いていないかもしれないけど、
ガクッと力が抜けていくことがある。

「そうそう、うまいねー」
声をかけながら、

他も緩めていく。

そうすると顔も穏やかになり、
呼吸も楽になり…。


その、
顔や呼吸が穏やかに見える状態は、

嘘やごまかしではなく
本当であると確信できました。

今巷でよく言われている
「癒し」
という言葉は私はあまり好きではありません。


それは、
こころが深く傷つき
明らかに血を流している状態から、
そこを大切に扱って
「その方のペース」で
治癒していこうという、

その過程が癒しだと思っているので、


温泉に入って
「癒されるわ~」というのとは
少し違う気がするから。


でも、
その治癒を行う前提として、
その傷口を扱うという入り口に
「間主観的共感」
「間身体的共感」があって、

一緒にその傷口を扱っていくのだな、
という共通した思いがあることが大切なんだな、
と感じました。

そして、
私はその部分を大切に扱っていける
心理師(士)・整体師・セラピストでありたいな、
と思いました。

今回はこのあたりで、失礼いたします。
お読みいただいて、感想など頂けると嬉しいです。

 

 

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