第一部 はじまり
第三章 同じ仕事、違う一日
朝、目が覚める。
顔を洗う。
作業着に着替える。
車に乗る。
その日の住所を確認する。
道具は昨日とほとんど同じだった。
高圧洗浄機。
ホース。
脚立。
洗剤。
ブラシ。
タオル。
養生道具。
忘れ物がないことを確認して、エンジンをかける。
今日もまた、掃除屋の一日が始まる。
掃除屋を始めてしばらくすると、仕事にも少しずつ慣れてきた。
最初の頃は、知らない家のインターホンを押すだけでも緊張していた。
エアコンのカバーを外すたびに、壊さないかと心配した。
ネジを一本外すだけでも、元に戻せるだろうかと不安になった。
それが何台、何十台と繰り返しているうちに、身体が少しずつ覚えていった。
養生する。
部品を外す。
汚れを確認する。
洗剤を使う。
洗う。
拭く。
元に戻す。
動作確認をする。
やることは、だいたい同じだった。
もちろん、エアコンの機種や設置されている場所によって違いはある。
それでも、大きく見れば毎日同じことを繰り返していた。
レンジフードもそうだった。
浴室もそうだった。
洗濯機もそうだった。
汚れているものを見つけて、
どうすればきれいになるのかを考え、
手を動かす。
きれいになったら、
元の状態へ戻す。
単純な仕事だった。
今日の一軒目は、エアコンクリーニングだった。
住宅街にあるマンション。
約束の時間より少し早く着いたため、近くに車を停めて時間を待った。
フロントガラスの向こうを、小学生たちが歩いていく。
ランドセルが大きく見える。
横断歩道の前で止まり、信号が変わるのを待っている。
その姿をなんとなく眺めながら、くまは時計を確認した。
そろそろいい時間だった。
車を降りる。
道具を持つ。
マンションへ向かう。
いつものように挨拶をして、部屋へ通してもらった。
リビングには、小さな女の子がいた。
床に座って絵を描いている。
くまを見ると一度だけ顔を上げたが、すぐにまた画用紙へ目を戻した。
お客様にエアコンの状態を聞き、作業を始める。
脚立を立てる。
床や壁を養生する。
エアコンのカバーを外す。
内部には、ホコリと黒いカビが見えた。
特別ひどいわけではない。
かといって、きれいでもない。
よくある汚れ方だった。
くまは黙々と作業を進めた。
洗剤をなじませ、
高圧洗浄機で内部を洗っていく。
黒い汚れが洗浄水と一緒に流れ落ちる。
一度洗う。
状態を確認する。
残っているところを、もう一度洗う。
やがて、黒かった洗浄水が少しずつ薄くなっていく。
何度やっても、この変化を見るのは嫌いではなかった。
作業をしている途中、
女の子が少し離れたところから、くまを見ていた。
何をしているのか気になるらしい。
くまが振り返ると、目が合った。
女の子は何も言わず、少しだけ後ろへ下がった。
しばらくすると、また近づいてきた。
今度は母親の後ろから覗いている。
くまは少し笑った。
それだけだった。
作業が終わる頃には、女の子はまた床に座って絵を描いていた。
帰り際、
母親に促されて、小さな声で、
「ありがとうございました」
と言った。
くまも、
「ありがとう」
と返した。
その日、その家で起きたことは、それくらいだった。
午後は別の家へ向かった。
今度は洗濯機だった。
午前中とは違う町。
違う家。
違う家族。
それでも、やることは似ている。
部品を外し、
普段は見えないところに溜まった汚れを確認する。
洗剤を使い、
少しずつきれいにしていく。
最後に元へ戻し、
問題なく動くことを確認する。
そして、
「ありがとうございました」
と言って家を出る。
車に戻る。
次の住所を確認する。
また走る。
そんな日が続いた。
一軒。
また一軒。
一台。
また一台。
気づけば、
昨日と今日の違いが分からなくなることもあった。
今日はどこへ行ったんだっけ。
昨日洗ったのは、エアコンだったか。
洗濯機だったか。
そんなことさえ曖昧になる。
掃除屋という仕事は、
派手ではない。
劇的な出来事も、
そうそう起こらない。
毎日違う場所へ行っているのに、
毎日同じようなことをしている。
それでも不思議なことに、
まったく同じ一日はなかった。
ある家では、
玄関を開けると犬が勢いよく走ってきた。
ある家では、
猫が作業中ずっと脚立の下に座っていた。
ある家では、
生まれたばかりの赤ちゃんが眠っていた。
ある家では、
年老いた夫婦が二人で暮らしていた。
同じエアコンでも、
置かれている家が違えば、
その周りにあるものも違う。
家族写真。
子どもの絵。
仏壇。
賞状。
結婚式の写真。
旅行先で買ったらしい置物。
冷蔵庫に貼られた学校の予定表。
何気なく置かれているものの一つ一つに、
その家の暮らしがあった。
掃除屋は、
人の家の中に入る。
それは考えてみれば、
少し不思議な仕事だった。
昨日まで知らなかった人の生活の中へ入り、
その人が毎日使っているものに触れる。
けれど、
そこにあるものについて、
こちらから尋ねることはほとんどない。
聞かなくてもいいことは、
聞かない。
見えても、
見なかったことにする。
掃除屋を続けていくうちに、
くまはそれも仕事の一部なのだと知った。
そんな毎日の中で、
くまには一つ好きな時間ができた。
作業中ではない。
仕事と仕事の間、
一人で車を走らせている時間だった。
さっきまで知らない人の家にいたのに、
玄関を出た瞬間、
また一人になる。
車に乗る。
ドアを閉める。
そこで一度、
その家の時間から離れる。
ラジオをつける日もある。
音楽を聴く日もある。
何も流さない日もある。
次の現場まで三十分。
その時間だけは、
誰とも話さなくていい。
ただ、
車を走らせる。
窓の外の景色は毎日違った。
桜が咲いている道。
雨に濡れた住宅街。
真夏の強い日差し。
夕方の長い影。
冬の澄んだ空。
同じ道を通ることもある。
けれど、
季節が変われば景色も変わる。
昨日まで咲いていた花がなくなり、
いつの間にか違う花が咲いている。
田んぼの色が変わる。
日が暮れる時間が変わる。
人の服装が変わる。
くま自身も、
少しずつ歳を取っていく。
毎日同じことをしているようで、
何も同じではなかった。
ある日の夕方、
仕事を終えたくまは、
いつもの道を走っていた。
その日は特別なことが何もなかった。
朝からエアコンを洗い、
午後は浴室を掃除した。
お客様と少し話した。
昼はコンビニで買ったものを車の中で食べた。
仕事が終わった。
それだけの一日だった。
信号で車が止まった。
何気なく横を見ると、
夕日が建物の隙間から差し込んでいた。
道路も、
電柱も、
向こうを歩いている人も、
全部が橙色になっていた。
きれいだった。
くまは、しばらくその景色を見ていた。
写真を撮ろうとは思わなかった。
誰かに見せようとも思わなかった。
ただ、
きれいだと思った。
信号が青になる。
後ろから車が来ている。
くまは再び走り出した。
それだけだった。
昔のくまなら、
そんな一日に何の意味があるのだろうと思ったかもしれない。
何か大きな出来事があったわけでもない。
何かを成し遂げたわけでもない。
人生の答えを見つけたわけでもない。
でも、
人生のほとんどは、
たぶんこういう日なのだ。
結婚する日。
子どもが生まれる日。
誰かと別れる日。
大切な人を失う日。
人生には、
忘れられない日がある。
けれど、
そんな日は毎日やってこない。
それ以外のほとんどは、
名前もつかないような一日だ。
朝起きて、
仕事をして、
ご飯を食べて、
家に帰って、
眠る。
そして、
また朝が来る。
掃除も同じだった。
一度きれいにしても、
また汚れる。
ホコリはたまる。
油はつく。
カビも生える。
だから、
また掃除する。
くまは昔、
それを少し不思議に思ったことがある。
どうせまた汚れるのに、
なぜ掃除するのだろう。
でも、
また汚れるからといって、
今日きれいにすることが無駄になるわけではない。
今日、
気持ちよく過ごせる。
それで十分なのかもしれない。
人生も、
似ているのかもしれなかった。
明日また悩むかもしれない。
嫌なことがあるかもしれない。
今日出した答えが、
明日には分からなくなることもある。
それでも、
今日という一日を過ごす。
その繰り返しだった。
数年後。
くまは再び、
以前エアコンを掃除したマンションを訪れることになる。
玄関が開く。
見覚えのある部屋。
同じ場所に、
同じエアコンがある。
けれど、
以前床に座って絵を描いていた女の子は、
もう少し大きくなっていた。
そのとき初めて、
くまは気づくことになる。
自分が同じ仕事を繰り返している間にも、
時間はちゃんと進んでいる。
子どもは大きくなる。
親は歳を取る。
自分も歳を取る。
そして、
変わらないと思っていたものも、
少しずつ変わっていく。
その話は、
もう少し先にしよう。
その日の夜。
くまは明日の予定を確認した。
一軒目、エアコン。
二軒目、洗濯機。
見慣れた予定だった。
特別なことは何もない。
明日もまた、
今日と似たような一日になるだろう。
作業着を着る。
車に乗る。
知らない家へ行く。
汚れを落とす。
元に戻す。
お礼を言って、
また次へ向かう。
その繰り返し。
でも、
同じ一日は二度と来ない。
同じ人に会っても、
その人は昨日とは少し違う。
同じ場所へ行っても、
季節は少し進んでいる。
そして自分自身も、
ほんの少しだけ、
昨日とは違っている。
それが積み重なって、
一年になる。
十年になる。
やがて、
人生になる。
くまはまだ、
そんなことを深く考えてはいなかった。
ただ、
明日のためにタオルを準備し、
道具を車へ積んだ。
そして、
いつものように眠った。
翌朝になれば、
また同じことをするために起きる。
その単調な毎日の中に、
自分がずっと探していたものがあることを、
まだ知らないまま。
人生は、
大きな答えを見つけた日にだけ、
進んでいるわけではない。
何も起こらなかった今日も、
ちゃんと一日分、
進んでいる。
そしてその一日もまた、
いつか振り返れば、
自分の人生の一部になっている。
くまの掃除屋としての日々は、
そんなふうに、
静かに積み重なっていった。