第三部 それでも

第七章 手を貸す距離

午後、

道具を洗っていると、

電話が鳴った。

以前、

エアコンを掃除した女性だった。

「くまさん、

ちょっとお願いがあって」

声に聞き覚えがあった。

作業中、

何度もお茶を勧めてくれた人だった。

「どうされました?」

「二階のたんすを、

下へ持ってきてもらえないかしら」

くまは、

蛇口を閉めた。

階段の形を思い出した。

途中で、

大きく曲がっていた。

「大きさは、

どのくらいですか」

「私の背より少し低いくらい」

女性は、

すぐに続けた。

「中の物は出しておくから」

くまは黙った。

軽い棚を動かすくらいなら、

作業のついでに手を貸すことはあった。

でも、

階段を使って大きなたんすを下ろすのは、

違った。

「便利屋さんにも聞いたんだけどね」

女性が言った。

「二人で来るから、

それなりにかかるって」

くまは、

濡れた手をタオルで拭いた。

「くまさんなら、

顔も分かるし」

その言葉は、

うれしかった。

知らない人を家へ入れる不安は、

仕事のたびに感じていた。

だからこそ、

頼ってもらえたときは、

なるべく応えたかった。

「お一人で来て、

少し手伝ってもらえればいいの」

くまは、

もう一度階段を思い浮かべた。

上から押す人。

下で支える自分。

途中で、

手が滑ったら。

女性が、

支えようとしたら。

「すみません」

くまは言った。

「その大きさだと、

僕一人では安全に運べません」

電話の向こうが、

静かになった。

「そう」

女性は、

短く言った。

「中を出しても?」

「はい。

重さだけじゃなくて、

階段の曲がり角もあるので」

くまは、

少しゆっくり話した。

「二人以上で、

運ぶ仕事に慣れた方へお願いしたほうがいいと思います」

「そうなのね」

そのあとの声は、

最初より遠かった。

電話が切れた。

くまは、

画面を見たまま立っていた。

もっと別の言い方があったのではないか。

見に行くだけなら、

できたのではないか。

父だったら、

どうしただろう。

そう考えて、

くまは自分の右手を見た。

去年、

重い道具を無理な姿勢で持って、

何日も腰が痛んだことがあった。

靴下を履くだけで、

息を止めた。

あのときは、

何とか現場へ出た。

でも、

もし階段で転んだら。

自分だけでは済まない。

くまは、

道具洗いを再開した。

ブラシの根元から、

灰色の水が流れた。

何度すすいでも、

気持ちはすっきりしなかった。

夕方、

母に写真を届けるため、

小さな写真店へ寄った。

父の写真を複製してもらった。

古い紙の傷も、

そのまま写っていた。

家へ着くと、

母が鉢を動かしていた。

大きな鉢だった。

くまは慌てて、

横から手を出した。

「どこへ持ってくの」

「あっち。

もう少し日の当たるほう」

持ち上げる前に、

くまは鉢の底を確かめた。

思ったより重かった。

「台車、持ってくる」

「ちょっとそこまでなのに」

「ちょっとでも、

腰やったら困るから」

母は、

何も言わずに待った。

鉢を動かし、

写真を渡した。

母は、

眼鏡をかけて父の顔を見た。

「ありがとう」

それから、

くまの顔を見た。

「何かあった?」

「別に」

言いかけて、

やめた。

くまは、

たんすの電話の話をした。

母は、

写真を持ったまま聞いていた。

「父ちゃんだったら、

行ったかな」

くまが言うと、

母はすぐには答えなかった。

「分からないわよ」

写真を、

テーブルへ置いた。

「行って、

腰を痛めて帰ってきたかもしれないし」

くまは、

思わず笑った。

母も笑った。

「そういうこと、

あったの?」

「何度も」

母は、

少しあきれた顔をした。

「人には無理するなって言うくせにね」

くまは、

父の写真を見た。

父の話を聞いてから、

何でも引き受けられる人になりたいと、

どこかで思っていた。

でも、

母の覚えている父は、

ときどき腰をさすりながら、

家へ帰ってくる人だった。

「断ったら、

嫌われたかなって」

くまが言うと、

母は湯のみを持った。

「それは、

分からない」

少し間を置いた。

「でも、

けがをさせたら、

もっとつらいでしょう」

くまはうなずいた。

それだけは、

はっきりしていた。

翌日の昼。

昨日の女性から、

短いメッセージが届いた。

専門の業者へ頼むことにした。

引き出しを抜いたら、

本体が思った以上に重かった。

無理を言ってごめんなさい。

くまは、

一度読んで、

もう一度読んだ。

安心した。

その気持ちは、

隠せなかった。

でも、

返事が来なかったとしても、

昨日の判断が間違いになるわけではない。

そう思うまでに、

少し時間がかかった。

くまは返信した。

連絡へのお礼。

安全に運んでもらえるとよいこと。

また掃除で困ったら、

声をかけてほしいこと。

それだけを書いた。

送信して、

携帯をポケットへ入れた。

午後の現場では、

洗濯機の横に棚があった。

持ってみると、

中身が入ったままだった。

くまは、

お客様に聞いた。

「先に、

上の物をよけても大丈夫ですか」

急げば、

そのまま動かせたかもしれない。

でも、

そうしなかった。

一つずつ下ろし、

置く場所を確かめた。

誰かを助けたいと思った日にも、

自分の手は、

二本しかなかった。


関連記事一覧|そうじ屋くま 目次

物語を最初から順番にお読みいただけます。公開予定の記事は、記載の日時以降にご覧ください。

はじめに

これから、小説『そうじ屋くま』を書いていこうと思います

『そうじ屋くま』 ― 人生の汚れは、落とせますか。―

第一部 はじまり

第一部 はじまり 第一章 そうじ屋になった日

第一部 はじまり 第二章 最初の「ありがとう」

第一部 はじまり 第三章 同じ仕事、違う一日

第一部 はじまり 第四章 名前をもらった日

第一部 はじまり 第五章 また来年

第一部 はじまり 第六章 きれいにならないもの

第一部 はじまり  第七章 仕事がない日

第一部 はじまり 第八章 失敗した日

第一部 はじまり 第九章 掃除屋の値段

第一部 はじまり 第十章 知らない町

第二部 つながり

第二部 つながり 第一章 三十年ぶりのLINE

第二部 つながり 第二章 また会う理由

第二部 つながり 第三章 誘わない理由

第二部 つながり 第四章 空っぽになった部屋

第二部 つながり 第五章 先生と飲む酒

第二部 つながり 第六章 名前も知らない人

第二部 つながり 第七章 直す人、捨てる人

第二部 つながり 第八章 帰る場所

第二部 つながり 第九章 ありがとう

第二部 つながり 第十章 こだわる理由

第三部 それでも

第三部 それでも 第一章 星三つの日

第三部 それでも 第二章 疑われた日

第三部 それでも 第三章 父を知る人(9月18日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第四章 知らない父(9月19日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第五章 裏口の灯り(9月20日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第六章 名前のない仕事(9月21日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第七章 手を貸す距離(9月22日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第八章 待つあいだ(9月23日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第九章 写真の余白(9月24日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第十章 明日も行く(9月25日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間

第四部 となりの時間 第一章 二つの湯のみ(9月26日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間 第二章 借りた椅子(9月27日 8:08公開予定)

第三部 それでも

第六章 名前のない仕事

朝、

くまは車を止めて、

助手席を見た。

父の写真は、

透明な袋に入っていた。

昨夜、

家へ戻ってから入れたものだった。

今日の現場へ着く前に、

何度も見ようと思った。

でも、

結局一度も取り出さなかった。

なくさないよう、

鞄の内側へしまった。

それから、

いつものように道具を持った。

午前中の仕事は、

浴室の掃除だった。

玄関を開けた女性は、

くまより少し年上に見えた。

髪を後ろで一つにまとめ、

袖口を折り返していた。

「散らかっていて、すみません」

女性は、

洗面所へ案内しながら言った。

床には何も落ちていなかった。

タオルも、

きちんと畳まれていた。

浴室の扉を開けると、

椅子の足に白い汚れが重なっていた。

排水口の蓋を取る。

髪の毛と、

石けんの残りが見えた。

「最近、手が回らなくて」

くまはうなずいた。

「気になるところはありますか」

女性は少し考えて、

鏡の下を指した。

「このへんが」

そこには、

何かをこすった跡があった。

細い線が、

何本も重なっていた。

「頑張ってみたんですけど」

くまは、

素材と汚れの状態を確かめた。

落とせそうなもの。

傷として残るもの。

その違いを、

短く説明した。

女性は、

傷と聞いたところで、

少し肩を落とした。

「やらなきゃよかったですね」

「ここまで気になって、

お手入れされていたんですね」

くまがそう言うと、

女性は鏡を見たまま、

小さく息を吐いた。

「そうなんです」

その声だけが、

少し違って聞こえた。

作業を始めて、

一時間ほど経った頃。

廊下の向こうで、

電話が鳴った。

女性はすぐに出た。

「うん。

今日は来てもらってるから」

少し間があった。

「お風呂の掃除」

また、

間があった。

「分かってるけど」

くまは、

ブラシを動かしていた。

聞かないようにしていても、

声は浴室まで届いた。

「じゃあ、

今度は来たときにお願い」

電話が切れた。

しばらく、

家の中が静かになった。

女性は、

洗面所へ戻ってきた。

「あの、

あとどのくらいですか」

責めるような言い方ではなかった。

ただ、

声が少し急いでいた。

くまは時計を見た。

「あと四十分ほどで、

仕上げの確認までできると思います」

「そうですか」

女性は、

置かれていた洗剤の容器を、

一つ持ち上げた。

何かを言いかけて、

また置いた。

くまは待った。

「人に頼むほどじゃないって、

言われちゃって」

女性は笑った。

笑って、

扉の縁を見た。

「自分の家のお風呂くらい、

自分でやればいいって」

くまは、

すぐに言葉を返せなかった。

電話の相手を知らない。

この家の事情も、

今日初めて来た自分には分からない。

「私も、

前はできてたんです」

女性が続けた。

「仕事から帰って、

ご飯を作って、

そのあとに」

浴室の外で、

洗濯機が止まった。

終了を知らせる音が鳴った。

女性は、

反射的にそちらを見た。

その目の動きを、

くまは見ていた。

「今日は、

ここは僕がやりますので」

くまは言った。

「終わったら、

見ていただければ大丈夫です」

女性は、

少しだけ口を開いた。

それから、

「お願いします」

と言って、

洗濯機のほうへ向かった。

くまは、

作業へ戻った。

気の利いた言葉は、

出てこなかった。

自分に家事の分担を決めることはできない。

誰かを説得することも。

でも、

この浴室なら、

約束したところまで終わらせられる。

椅子の裏を洗う。

床をすすぐ。

水滴を拭き上げる。

鏡の傷は残った。

白く曇っていた部分は、

向こう側の顔が見えるようになった。

確認に来た女性は、

浴室へ一歩入って、

しばらく何も言わなかった。

それから、

床へ目を落とした。

「ここ、

こういう色だったんですね」

くまも床を見た。

淡い、

少し青みのある灰色だった。

女性は、

浴槽の縁へ手を置いた。

「今日、早めに入ろうかな」

誰に言うでもなく、

そう言った。

支払いが終わり、

道具を玄関へ運んだ。

女性は、

洗面所に戻って、

すぐにまた出てきた。

手には、

畳みかけのタオルがあった。

「すみません。

さっき、変な話しちゃって」

「いえ」

くまは首を振った。

女性はタオルの角をそろえた。

「毎日やっても、

また汚れるでしょう」

「はい」

「だから、

何もしてないみたいになるんですよね」

くまは、

手に持った道具箱を見た。

昨日使ったタオルは、

洗って乾かし、

また積み直してある。

使えば汚れる。

片づけても、

明日にはまた出す。

仕事なら、

それを準備と呼べる。

家の中では、

何と呼ばれるのだろう。

「でも、

今日、僕がすぐ作業できたのは」

くまは、

言葉を選んだ。

「洗面所の物を、

よけておいてくださったからです」

女性が顔を上げた。

「それは、

邪魔になると思って」

「助かりました」

その言葉を口にしたとき、

昨夜の修理屋の話が、

少しだけ頭をよぎった。

まねをしたつもりはなかった。

本当に、

助かっていた。

女性は、

タオルを胸の前へ持ち直した。

「そうですか」

今度の笑顔は、

さっきより小さかった。

でも、

くまには、

そのほうが自然に見えた。

車へ戻ると、

昼を少し過ぎていた。

午後の予定は空いていた。

くまは、

仕事の記録をつけた。

浴室清掃。

作業時間。

使用した洗剤。

残った傷。

いつも書く項目を埋める。

その下に、

一行だけ加えた。

洗面所を空けて待っていてくださった。

書き終えてから、

自分でも少し笑った。

料金には関係のないことだった。

でも、

次にこの家へ来るとき、

忘れたくなかった。

窓の外で、

向かいの家の人が、

干した布団を裏返していた。

誰かが暮らしを続けるために、

今日も、

いろいろな手が動いていた。


関連記事一覧|そうじ屋くま 目次

物語を最初から順番にお読みいただけます。公開予定の記事は、記載の日時以降にご覧ください。

はじめに

これから、小説『そうじ屋くま』を書いていこうと思います

『そうじ屋くま』 ― 人生の汚れは、落とせますか。―

第一部 はじまり

第一部 はじまり 第一章 そうじ屋になった日

第一部 はじまり 第二章 最初の「ありがとう」

第一部 はじまり 第三章 同じ仕事、違う一日

第一部 はじまり 第四章 名前をもらった日

第一部 はじまり 第五章 また来年

第一部 はじまり 第六章 きれいにならないもの

第一部 はじまり  第七章 仕事がない日

第一部 はじまり 第八章 失敗した日

第一部 はじまり 第九章 掃除屋の値段

第一部 はじまり 第十章 知らない町

第二部 つながり

第二部 つながり 第一章 三十年ぶりのLINE

第二部 つながり 第二章 また会う理由

第二部 つながり 第三章 誘わない理由

第二部 つながり 第四章 空っぽになった部屋

第二部 つながり 第五章 先生と飲む酒

第二部 つながり 第六章 名前も知らない人

第二部 つながり 第七章 直す人、捨てる人

第二部 つながり 第八章 帰る場所

第二部 つながり 第九章 ありがとう

第二部 つながり 第十章 こだわる理由

第三部 それでも

第三部 それでも 第一章 星三つの日

第三部 それでも 第二章 疑われた日

第三部 それでも 第三章 父を知る人(9月18日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第四章 知らない父(9月19日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第五章 裏口の灯り(9月20日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第六章 名前のない仕事(9月21日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第七章 手を貸す距離(9月22日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第八章 待つあいだ(9月23日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第九章 写真の余白(9月24日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第十章 明日も行く(9月25日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間

第四部 となりの時間 第一章 二つの湯のみ(9月26日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間 第二章 借りた椅子(9月27日 8:08公開予定)

第三部 それでも

第五章 裏口の灯り

「お父さんね――」

母は、

そこまで言って、

テレビの音を消した。

急に静かになった部屋で、

冷蔵庫の音だけが聞こえた。

「仕事が、なくなったことがあるの」

くまは、

母を見た。

「父ちゃんが?」

「あんたが、まだ小さかった頃」

母は写真を、

テーブルの真ん中へ置いた。

「勤めてたところがね。

続けられなくなって」

父のせいではなかった。

何か失敗をしたわけでも、

働くのが嫌になったわけでもない。

それでも、

毎朝行っていた場所が、

なくなった。

「最初は、大丈夫だって言ってた」

父は、

いつもと同じ時間に起きた。

顔を洗い、

朝ご飯を食べた。

新聞の求人欄に、

赤い印をつけていた。

「すぐ見つかるって」

母は、

膝の上で手を重ねた。

「でも、なかなか決まらなかったの」

面接へ行く。

帰ってくる。

電話を待つ。

また、

別のところへ行く。

父は次第に、

帰ってから話さなくなった。

母も、

「どうだった?」

と聞かなくなった。

聞けば、

父が小さくなるような気がした。

聞かなければ、

何も分からなかった。

「私も、怖かったのよ」

母は言った。

「お金のことも。

これからのことも」

くまは、

母の横顔を見ていた。

母が父の話をするときは、

たいてい、

最後に笑う。

あの人は、

本当に仕方がなかった。

そんなふうに。

でも、

今夜は違った。

「お父さんだけが、つらかったわけじゃない」

母は、

ゆっくり言った。

「でもね。

あの頃は、二人ともそれを言えなかった」

ある夕方。

母は、

買い物から帰ってきた。

玄関に、

父の靴があった。

居間にはいない。

台所にもいない。

裏へ回ると、

父が座っていた。

作業着のまま、

何もせず、

土を見ていた。

「お父さん、畑仕事が好きだったでしょう」

くまはうなずいた。

土のついた長靴。

日に焼けた首。

採れすぎた野菜を、

近所へ持っていく背中。

それなら、

よく覚えている。

「でも、その日はね」

母は言った。

「草を一本も抜いてなかった」

くまは、

その父を想像しようとした。

うまくできなかった。

自分の知っている父は、

いつも何かしていた。

座っていても、

次に何をするか考えているような人だった。

「少しして、お父さんが言ったの」

母は、

写真から目を離した。

「俺、何の役にも立ってないなって」

くまの胸が、

わずかに痛んだ。

父の声では、

聞いたことのない言葉だった。

でも。

その言葉を考える気持ちは、

知っていた。

予約の入らない日。

電話の鳴らない午後。

何度も予定表を開いて、

何も変わっていないのを確かめる。

そんな日の自分と、

少し似ていた。

「母ちゃんは、何て言ったの」

母は、

首を横に振った。

「何も」

少し間を置いた。

「うまいことなんて、言えなかった」

買い物袋が重かった。

冷蔵庫へ入れなければいけないものもあった。

夕飯も作らなければいけなかった。

母は、

父をそこへ残して、

台所へ戻った。

「今でも、ときどき思うの」

母が言った。

「あのとき、何か言えばよかったかなって」

くまは、

すぐには答えられなかった。

父を亡くしてから、

自分だけが、

言えなかった言葉を持っているような気がしていた。

母にも、

あった。

ずっと昔の夕方に、

置いてきた言葉が。

「その人が来たのは、次の日だった」

母は続けた。

近所に、

小さな修理屋があったという。

自転車を直したり、

鍋の取っ手を取り替えたり。

看板の文字は薄れていたけれど、

近所の人は、

何か壊れるとそこへ持っていった。

店主は、

父よりずっと年上の人だった。

「その人がね。

裏口の電気がつかないって、来たの」

くまは聞いた。

「修理屋なのに?」

母が、

初めて少し笑った。

「脚立に上がれなくなってたのよ。

膝を悪くして」

電球を替えるだけだった。

父は、

すぐ戻ると言って出ていった。

でも、

帰ってきたのは、

昼を過ぎてからだった。

「棚まで直してきたって」

電球を替えたあと、

父は脚立を片づけようとした。

その横の棚が、

傾いていた。

古い箱が何段も積まれて、

脚の一本がぐらついていた。

父は、

それを放っておけなかった。

箱を下ろし、

ねじを締め直した。

店主は横から、

あれが足りない、

そこは触るなと、

ずっと口を出していたらしい。

「帰ってきて、文句言ってたわ」

母が笑った。

「人に頼んどいて、うるさいんだって」

くまも、

少し笑った。

今度は、

父の声が聞こえた気がした。

翌日も、

店主は来た。

今度は、

重い箱を動かしたいと言った。

その次は、

店先の雨どいだった。

父は、

何度か通った。

「仕事を世話してくれたの?」

くまが聞くと、

母は首を振った。

「そこまで大きなお店じゃなかったから」

父の仕事は、

まだ決まらなかった。

家計も、

苦しいままだった。

ただ、

父が夕飯のとき、

少し話すようになった。

あの店には、

使えない部品ばかり置いてある。

捨てようとすると、

いつか使うと怒られる。

何十年前の物だと思ってるんだ。

母は、

それを聞いた。

どうだったと聞かなくても、

父が自分から話した。

「ある日ね」

母は言った。

「お昼をごちそうになってきたの」

その言葉に、

くまは顔を上げた。

「ラーメン?」

母は、

不思議そうにくまを見た。

それから、

小さく笑った。

「ううん。

冷やご飯だったって」

店の奥に、

小さな台所があった。

残ったご飯を温めて、

卵を焼いた。

二人で、

向かい合って食べた。

父はそこで、

仕事のことを話したらしい。

決まらないこと。

家にいるのが、

だんだん苦しくなってきたこと。

家族の顔を見ると、

申し訳なくなること。

「詳しくは、私も知らないの」

母は言った。

「お父さんが、帰ってから少し話しただけだから」

くまはうなずいた。

母も知らない時間が、

そこにはあった。

「でも、一つだけ覚えてる」

母は、

テーブルに置かれた写真を見た。

「役に立たないなんて言ったら、怒られたって」

店主は、

裏口を指したらしい。

父が替えた電球が、

そこにあった。

夜、

店を閉めたあと。

足元が見えなくて、

何度も怖い思いをした。

でも今は、

段差が見える。

自分で転ばずに、

家へ入れる。

――俺は、助かったんだよ。

店主は、

そう言ったという。

父は、

たかが電球だと答えた。

すると店主は、

また怒った。

――たかがかどうかは、俺が決める。

くまは、

今日会った男性を思い出した。

俺にとっては、

たいしたことじゃない話じゃない。

同じ言葉ではなかった。

でも、

その声が重なった。

電球を替えた人。

飯を食べさせた人。

自分では小さなことだと思っていた人たちが、

それぞれの場所にいた。

「お父さん、すぐ元気になったの?」

母は、

少し考えた。

「そんなに簡単じゃなかったわよ」

仕事が決まらず、

機嫌の悪い日もあった。

母に、

強い言い方をした日もあった。

あとで謝らず、

黙って皿を洗っていた日も。

「私だって、腹が立ったし」

母は言った。

「あんたのお父さん、意地っ張りだったから」

くまは笑った。

それは、

よく知っていた。

父は優しかった。

でも、

いつも優しいわけではなかった。

怒ることもあった。

黙り込むことも。

亡くなってから思い出す父は、

いつの間にか、

笑っている顔ばかりになっていた。

母の話す父には、

眉間にしわがあった。

ため息があった。

洗った皿を置く、

少し乱暴な音があった。

くまは、

その父に、

もう一度会いたくなった。

「仕事が決まってからも、行ってたわ」

母は続けた。

休みの日に、

店をのぞいた。

畑で採れた野菜を、

置いてきた。

店主が入院したときは、

何度か見舞いにも行った。

「返しきれないなって、言ってた」

くまは、

写真を裏返した。

忘れるな。

今度はお前が誰かを助けろ。

文字の端が、

少し薄れていた。

「この言葉も、その人が?」

母は、

ゆっくり首を振った。

「それは分からない」

そして言った。

「お父さんが、自分で考えたのかもしれないね」

くまは、

写真を見つめた。

全部が、

同じ言葉で渡ってきたわけではないのかもしれない。

父は父の言葉で、

あの男性に話した。

あの男性は、

自分の言葉で若者に話した。

電球は、

ラーメンになった。

次には、

別の何かになった。

くまは、

写真を表へ戻した。

若い父が笑っている。

さっき見たときよりも、

少しだけ、

近くにいるように感じた。

「その修理屋さん、どこにあったの」

母が道を説明した。

昔、

文房具屋があった角。

そこを曲がって、

二軒先。

くまにも分かる場所だった。

今は、

駐車場になっている。

仕事で、

何度も前を通っていた。

「もう、ないんだな」

「ずいぶん前にね」

母は、

お茶を入れ直そうと立ち上がった。

くまも立った。

「俺、やるよ」

「急にどうしたの」

「別に」

台所へ行く。

湯のみを二つ、

流しのそばへ並べた。

母は後ろから、

茶葉はそっちじゃないと、

口を出した。

くまは、

少し笑った。

お茶を入れるだけなのに、

なかなか任せてもらえなかった。

居間へ戻ると、

母はまた、

父の写真を見ていた。

「これ、母ちゃん持ってる?」

母は首を振った。

「あんたがもらったんでしょう」

「でも」

「今度、同じのを一枚作って」

くまはうなずいた。

「分かった」

母は、

写真をそっと差し出した。

「いい顔してるね」

くまは、

父を見た。

「うん」

少しして、

母が言った。

「この顔する前にはね。

いろんな顔してたのよ」

くまは、

何も言わずにうなずいた。

帰る頃には、

外はすっかり暗くなっていた。

玄関で靴を履く。

母が、

廊下の電気をつけた。

くまの足元が明るくなった。

「気をつけて」

いつもの言葉だった。

「うん。

また来る」

外へ出てから、

くまは一度振り返った。

母はまだ、

扉のところに立っていた。

くまが車に乗るまで、

電気は消えなかった。

助手席に、

写真を置いた。

父は、

自分が役に立たないと思った日にも、

誰かの足元を明るくしていた。

そして、

その誰かに、

助かったと言ってもらった。

くまは、

ハンドルに手を置いた。

明日の予定は、

午前中の一件だけだった。

その空白が、

昨日から少し気になっていた。

予定が増えたわけではない。

不安が消えたわけでもない。

それでも、

まずは、

その一軒へ行こうと思った。

エンジンをかける。

家の前をゆっくり出ると、

母が小さく手を上げた。

くまも、

窓越しに手を上げた。

曲がり角まで来たとき、

バックミラーの中で、

玄関の灯りが消えた。


関連記事一覧|そうじ屋くま 目次

物語を最初から順番にお読みいただけます。公開予定の記事は、記載の日時以降にご覧ください。

はじめに

これから、小説『そうじ屋くま』を書いていこうと思います

『そうじ屋くま』 ― 人生の汚れは、落とせますか。―

第一部 はじまり

第一部 はじまり 第一章 そうじ屋になった日

第一部 はじまり 第二章 最初の「ありがとう」

第一部 はじまり 第三章 同じ仕事、違う一日

第一部 はじまり 第四章 名前をもらった日

第一部 はじまり 第五章 また来年

第一部 はじまり 第六章 きれいにならないもの

第一部 はじまり  第七章 仕事がない日

第一部 はじまり 第八章 失敗した日

第一部 はじまり 第九章 掃除屋の値段

第一部 はじまり 第十章 知らない町

第二部 つながり

第二部 つながり 第一章 三十年ぶりのLINE

第二部 つながり 第二章 また会う理由

第二部 つながり 第三章 誘わない理由

第二部 つながり 第四章 空っぽになった部屋

第二部 つながり 第五章 先生と飲む酒

第二部 つながり 第六章 名前も知らない人

第二部 つながり 第七章 直す人、捨てる人

第二部 つながり 第八章 帰る場所

第二部 つながり 第九章 ありがとう

第二部 つながり 第十章 こだわる理由

第三部 それでも

第三部 それでも 第一章 星三つの日

第三部 それでも 第二章 疑われた日

第三部 それでも 第三章 父を知る人(9月18日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第四章 知らない父(9月19日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第五章 裏口の灯り(9月20日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第六章 名前のない仕事(9月21日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第七章 手を貸す距離(9月22日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第八章 待つあいだ(9月23日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第九章 写真の余白(9月24日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第十章 明日も行く(9月25日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間

第四部 となりの時間 第一章 二つの湯のみ(9月26日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間 第二章 借りた椅子(9月27日 8:08公開予定)

こんにちは。
相模原・町田を中心に東京・神奈川へ伺っている、そうじ屋くまの大津ふみあきです🐻

 

エアコンや洗濯機をきれいにしたい。
でも、人を家に呼ぶとなると、少し気が重い。

「部屋を片づけてから頼もう」
「洗面所まで見られるのは恥ずかしいな」

そんなふうに考えて、予約を後回しにしている方へ。今日は、掃除に伺う僕の側からお伝えしたいことがあります。

家じゅうをきれいにして待つ必要はありません

僕が伺う目的は、気になっているエアコンや洗濯機をきれいにすることです。

お部屋の片づき具合を採点するために行くわけではありません。

仕事をして、食事を作って、洗濯をして。毎日の生活があれば、物も出ます。すべて整ってからでないと人を呼べない、と思わなくて大丈夫です。

お掃除を頼むためのお掃除で、疲れてしまわないでくださいね。

お願いしたいのは、作業する場所のこと

一方で、安全に作業するために、機械の周りと道具を運ぶ通り道は確認させてください。

エアコンなら、下に脚立を置ける場所。洗濯機なら、周りの収納や棚、防水パンとの位置関係などです。

貴重品や割れやすい物、小物類は、できる範囲で別の場所へ移していただけると助かります。

ただし、重い家具や洗濯機を無理に動かす必要はありません。「これは動かしたほうがいいのかな?」と迷う場合は、予約前に設置状況をお知らせください。

必要な準備は機種や場所によって違うので、お写真などで確認してご案内します。作業では電気・水道や、部品を洗う場所をお借りします。

汚れを見せるのが気になる方へ

フィルターを掃除していても、奥までは手が届かない。洗濯機の外側は拭けても、中は見えない。

それは、普段のお手入れを怠けているという話ではありません。

自分でできるところと、道具や分解が必要なところ。その境目で困ったときに、僕たちの仕事があります。

「こんな状態でも相談していいですか?」というところからで大丈夫です。対応できるかどうかを、機種や状態を見て確認します。

最初の一歩は、HPをのぞくところから

初めて頼む相手なら、どんな人なのか、料金はいくらなのか、気になりますよね。

そうじ屋くまでは、清掃歴13年以上の僕、大津が直接伺います。

公式ホームページに、サービスごとの料金や作業内容、対応地域、予約案内をまとめています。まずは、ご自宅で気になっている場所のページをご覧ください。

▶ エアコンクリーニングの料金・作業内容を見る

▶ 洗濯機クリーニングの料金・対応機種を見る

ご予約・お問い合わせは、各ページ内の窓口からお願いします。

 

一軒一軒、暮らしを少し良くして帰る。

きれいになった機械だけでなく、「頼んでよかったな」という気持ちも残せる仕事をしていきたいと思っています。

第三部 それでも

第四章 知らない父

「あんたのお父さんには――」

男性は、

写真を見たまま言った。

「俺の人生を一度、助けてもらったんだ」

くまは、

何も言えなかった。

父が誰かを助けた。

葬儀のときにも、

似たような話は聞いたことがある。

「くまさんには世話になった」

「困ったとき助けてもらった」

 

でも、

あのときのくまには、

その言葉を一つ一つ聞く余裕がなかった。

父が死んだ。

それだけで、

頭の中がいっぱいだった。

誰が何を言っていたのか、

ほとんど覚えていない。

 

目の前の男性は、

写真を指でなぞった。

「三十年以上前だ」

「俺は、小さな会社で働いてた」

仕事は、

うまくいっていなかったという。

人間関係。

借金。

家族との喧嘩。

何をやっても、

裏目に出る時期だった。

 

「若かったしな」

男性は苦笑した。

「全部、自分で何とかできると思ってた」

人に相談するのは、

負けだと思っていた。

弱音を吐くのも嫌だった。

家では妻に当たるようになった。

仕事では、

周りとうまくいかなくなった。

 

そしてある日。

とうとう、

会社を辞めた。

家族には言わなかった。

「朝、仕事に行くふりして家を出たんだ」

男性は言った。

スーツを着て。

鞄を持って。

いつものように、

「行ってきます」

と言った。

でも、

会社へは行かなかった。

駅へ向かった。

ポケットには、

少しの現金。

どこへ行くのかは、

決めていなかった。

「遠くなら、

どこでもよかったんだ」

東京でも。

大阪でも。

もっと遠くでも。

自分を知っている人がいない場所へ行きたかった。

 

家族にも。

会社にも。

友人にも。

何も説明せず。

そのまま、

いなくなるつもりだった。

 

「最低だろ」

男性は笑った。

くまは、

何も言わなかった。

今の男性を見て、

昔の行動を責める気にはなれなかった。

人には、

そのときの自分にしか分からない苦しさがある。

 

男性は続けた。

「駅まで歩いてたらな」

「後ろから声がしたんだ」

――おい。

男性は振り返った。

そこにいたのが、

くまの父だった。

「別に、

すごく仲がよかったわけじゃないんだ」

顔を知っている。

会えば話す。

その程度の関係だったらしい。

 

父は、

男性の格好を見て聞いた。

――仕事か?

男性は、

「まあね」

と答えた。

父は何も言わなかった。

でも、

少し歩いてから、

また聞いた。

――会社、そっちじゃないだろ。

男性は、

黙った。

父も、

黙った。

二人でしばらく歩いた。

やがて父が、

突然言った。

――飯、食ったか?

男性は、

首を振った。

朝から、

何も食べていなかった。

「それでな」

男性が笑った。

「駅に行くはずだったのに、

なぜかラーメン食うことになったんだ」

 

くまも、

少し笑った。

なんとなく、

父らしいと思った。

何があった。

大丈夫か。

そんなことを、

最初から聞く人ではなかった。

まず、

飯。

そういう人だった気がする。

二人は、

近くの小さな店に入った。

男性はラーメンを食べた。

父も食べた。

父は、

何も聞かなかった。

仕事のことも。

家族のことも。

なぜ駅へ向かっていたのかも。

ただ、

隣でラーメンを食べていた。

 

「それがな」

男性が言った。

「逆に、

きつかったんだ」

もし父が、

「何があった」

と聞いていたら、

きっと男性は、

「何でもない」

と答えていた。

でも、

何も聞かれなかった。

その沈黙に耐えられなくなって、

自分から話し始めた。

仕事を辞めたこと。

妻にも言っていないこと。

家へ帰りたくないこと。

遠くへ行こうとしていること。

全部。

男性は、

ほとんど一人でしゃべった。

 

父は、

ときどき、

「うん」

と言っただけだった。

話し終えたあと、

父が聞いた。

――で、逃げたら楽になるのか?

男性は答えた。

――分からない。

父は、

水を飲んだ。

そして言った。

――じゃあ、逃げてもいいんじゃないか。

 

男性は驚いた。

「俺はな」

男性は、

そのときのことを思い出したように笑った。

「止められると思ってたんだよ」

家族を捨てるな。

根性を出せ。

男なら頑張れ。

そんなことを言われると思っていた。

でも、

父は言わなかった。

――本当に無理なら、逃げたっていい。

――仕事なんか、また探せる。

――金だって、生きてりゃどうにかなる。

そこで、

父は少し黙った。

そして言った。

――でもな。

――黙って消えるのだけはやめろ。

男性は、

父を見た。

――待ってる人間に、

――何も言わずにいなくなるな。

 

その言葉を聞いた瞬間。

男性は、

何も言えなくなった。

父は続けた。

――帰って、

――奥さんに話せ。

――怒られてこい。

男性は、

思わず笑った。

「なんだそれって思ったよ」

くまも笑った。

男性は、

その日のことを、

昨日のように覚えていた。

ラーメンの味は、

もう覚えていない。

店の名前も、

今は分からない。

でも、

父の言葉だけは、

ずっと残っている。

 

男性は結局、

電車には乗らなかった。

家へ帰った。

玄関の前で、

十分近く立っていたという。

鍵を開けるのが、

怖かった。

朝、

「行ってきます」

と言った自分が、

昼過ぎに帰ってくる。

何と言えばいいのか分からない。

それでも、

扉を開けた。

妻がいた。

「どうしたの?」

男性は、

しばらく何も言えなかった。

そして、

初めて言った。

「仕事、辞めた」

妻は、

黙った。

「ごめん」

それから、

今まで隠していたことを、

全部話した。

借金。

仕事。

逃げようとしていたこと。

家族に、

何も言わず消えようとしていたこと。

 

妻は、

しばらく黙っていた。

そして。

男性の頬を、

思いきり叩いた。

くまは、

思わず男性を見た。

男性は笑っていた。

「まあ、

当然だよな」

そのあと、

妻は泣いた。

怒った。

また泣いた。

男性も、

初めて泣いた。

何年ぶりか分からないくらい、

泣いた。

その夜、

二人で話した。

夜中まで。

何も解決しなかった。

借金が消えたわけでもない。

仕事が戻ったわけでもない。

夫婦関係も、

すぐに元へ戻ったわけではない。

 

ただ。

次の日、

男性はまだ、

家にいた。

そして、

その次の日も。

少しずつ、

生活をやり直した。

仕事を探した。

借金を返した。

妻とも、

何度も喧嘩した。

離婚の話も、

一度や二度ではなかった。

「でも」

男性が言った。

「逃げなかった」

何年もかかった。

それでも、

子どもたちは大きくなった。

家のローンも払い終えた。

借金もなくなった。

そして、

妻とは、

四十年以上一緒に暮らした。

 

くまは、

部屋を見回した。

最初に入ったときから、

気になっていたものがあった。

棚の上の、

写真立て。

そこに、

女性が写っていた。

男性と並んで、

笑っている。

くまは、

写真を見た。

男性も、

その視線に気づいた。

「女房だよ」

少し笑った。

「三年前に死んだ」

くまは、

何も言えなくなった。

「最後まで、

よく怒られたよ」

男性は笑った。

でも、

その目には、

少しだけ涙があった。

「でもな」

写真を見ながら言った。

「もし、

あの日そのまま電車に乗ってたら」

少し間を置いた。

「俺は、

あいつと四十年、

一緒にいられなかった」

くまの胸が、

締めつけられた。

「子どもたちとも、

どうなってたか分からない」

「孫にも、

会ってないかもしれない」

 

男性は、

写真の中の父を指した。

「だから」

声が、

少し震えた。

「俺にとっては、

たいしたことじゃない話じゃないんだ」

くまは、

父の写真を見た。

若い父は、

何も知らないような顔で笑っている。

父が、

誰かを救おうとしていたのかどうかは、

分からない。

たぶん、

そんな大げさなことは考えていなかった。

ただ、

様子のおかしい知り合いを見つけた。

飯を食わせた。

話を聞いた。

家へ帰れと言った。

たった、

それだけ。

でも。

その「それだけ」の先に、

四十年があった。

夫婦で過ごした時間。

育った子ども。

生まれた孫。

何千回もの食事。

何千回もの、

「おかえり」

何千回もの、

くだらない喧嘩。

全部が、

あの日の先に続いていた。

 

くまは、

写真を持ったまま、

動けなかった。

父が亡くなってから、

ずっと思っていた。

もっと親孝行すればよかった。

もっと話せばよかった。

もっと父のことを知っておけばよかった。

でも。

今、

父がいなくなってから十年以上経って、

初めて知る父がいる。

自分の知らない場所で。

自分の知らない人と。

自分の知らない一日を、

父は生きていた。

そして、

その一日が、

誰かの人生の中に、

今も残っている。

「でもな」

男性が言った。

「まだ続きがあるんだ」

くまは顔を上げた。

男性は、

写真を裏返した。

そこには、

あの言葉が書かれている。

忘れるな。今度はお前が誰かを助けろ。

 

「これ」

男性が指で触れた。

「くまさんに言われたんだ」

家へ帰る前。

店を出たところで、

父は男性に言ったという。

――今日のことは、

――俺に返さなくていい。

男性が、

何のことか分からずにいると、

父は続けた。

――いつか、

――お前みたいに困ってる奴がいたら、

――そいつに返せ。

男性は、

その言葉を忘れないために、

家へ帰ってから写真の裏へ書いた。

何年も。

何十年も。

その写真を、

捨てずに持っていた。

「それからな」

男性が言った。

「俺も一回だけ、

同じことをした」

くまは聞いた。

「同じこと?」

男性はうなずいた。

二十年ほど前。

男性の会社に、

若い社員がいた。

仕事で大きな失敗をした。

会社を辞めると言った。

上司にも怒られた。

家にも帰りたくないと言っていた。

男性は、

その若者を飯へ連れていった。

話を聞いた。

そして、

最後に言った。

――俺に返さなくていい。

――いつか誰か困ってたら、

――そいつに返せ。

「そのときな」

男性は笑った。

「自分で言いながら、

くまさんのこと思い出したよ」

くまの目が、

熱くなった。

一人の父が言った言葉が、

別の一人へ渡った。

その人から、

また別の人へ渡った。

父は、

そのことを知らない。

知らないまま、

亡くなった。

でも、

言葉は残っていた。

人から人へ。

三十年以上、

生き続けていた。

 

くまは、

父の葬儀を思い出した。

「くまさんには、

お世話になった」

当時は、

ただの挨拶のように聞いていた。

違った。

一人一人に、

物語があったのかもしれない。

父が、

ほんの少し関わった人生。

父に助けられた人。

父と笑った人。

父に怒られた人。

父から何かをもらった人。

息子の自分が知らないところで、

父は、

いろいろな人の中に、

少しずつ残っていた。

男性が聞いた。

「くまさんは、

最後まで元気だったのか?」

くまは、

首を横に振った。

「突然でした」

「大動脈解離で」

男性は、

しばらく黙った。

「そうか」

それだけ言った。

そして、

写真の中の父を見た。

「ちゃんと礼、

言えなかったな」

その言葉を聞いた瞬間。

くまは、

こらえていたものが、

少しだけ崩れた。

自分も同じだった。

もっと話したかった。

もっとありがとうと言いたかった。

もっと一緒にいたかった。

父が亡くなったあと、

何度も思った。

でも。

目の前の男性も、

同じことを思っていた。

父は、

自分だけの父ではなかった。

誰かにとっては、

人生の途中で、

たまたま出会った「くまさん」だった。

一緒に過ごしたのは、

たった数時間かもしれない。

それでも、

三十年以上、

忘れられない人になっていた。

一緒にいた時間の長さと、

人生に残る深さは、

同じではない。

そのことを、

くまは初めて、

目の前で見た気がした。

男性が、

写真を差し出した。

「これ」

「持っていけ」

くまは驚いた。

「いや」

「大事な写真じゃないですか」

「だからだよ」

男性は笑った。

「俺は、

もう十分持ってた」

「三十年以上、

この写真に助けてもらった」

そして、

くまを見た。

「今度は、

息子が持ってたほうがいい」

くまは、

すぐには受け取れなかった。

写真を見る。

若い父。

知らない人たち。

知らない場所。

知らなかった父の時間。

「……ありがとうございます」

両手で受け取った。

父が亡くなってから。

もう、

父から新しいものをもらうことはないと思っていた。

でも。

今日。

父から、

写真を一枚もらったような気がした。

 

玄関へ向かった。

男性が見送ってくれた。

「今日はありがとう」

「こちらこそ、

ありがとうございました」

くまは、

深く頭を下げた。

玄関を出ようとすると、

後ろから声がした。

「なあ」

くまは振り返った。

男性が、

少し笑っていた。

「くまさん」

一瞬。

くまは、

どちらのことを呼ばれたのか分からなかった。

父なのか。

自分なのか。

男性は続けた。

「いい名前だな」

くまは、

少しだけ笑った。

「はい」

「僕も、そう思います」

外へ出た。

車へ戻る。

運転席に座る。

写真を、

助手席へ置いた。

エンジンをかける前に、

もう一度見る。

若い父が、

笑っている。

「父ちゃん」

くまは、

小さく言った。

「俺、

全然知らなかったな」

返事はない。

当然だった。

でも、

写真の父は、

笑っていた。

その日の仕事を、

二件終えた。

三件目も、

いつも通り終わった。

道具を積み。

車を走らせる。

でも、

頭の中には、

ずっと写真があった。

夜。

くまは、

母の家へ行った。

「母ちゃん」

居間から、

「なに?」

と声がした。

母は、

テレビを見ていた。

「ちょっと見てほしいものあるんだけど」

くまは、

テーブルの上へ写真を置いた。

母は、

何気なく手に取った。

そして、

動きが止まった。

写真を見る。

長い間、

何も言わない。

くまは聞いた。

「知ってる?」

母は、

写真を裏返した。

そこに書かれた言葉を見る。

表へ戻す。

また、

父を見る。

「これ」

母が、

やっと口を開いた。

声が、

少し違っていた。

「どこでもらったの?」

くまは、

今日のことを話した。

父を知る男性。

仕事を辞めて、

家族から逃げようとしていたこと。

父が、

ラーメンを食べさせたこと。

家へ帰らせたこと。

その男性が、

今も父を忘れていなかったこと。

母は、

黙って聞いていた。

全部話し終わったあと。

くまは笑った。

「父ちゃん、

そんなことしてたんだな」

「俺、

全然知らなかったよ」

母は、

すぐには笑わなかった。

写真を見たまま、

小さく言った。

「そうね」

そして。

ぽつりと、

続けた。

「でもね」

くまは、

母を見た。

「お父さんも、

最初から、

人を助けられる人だったわけじゃないのよ」

「え?」

母は、

写真の中の父を指で触った。

「この頃ね」

少し間を置く。

「お父さん自身が、

一番つらかった頃なの」

くまは、

何も言えなかった。

今日、

初めて知った父がいた。

でも。

まだ、

知らない父がいる。

母は、

写真を見ながら言った。

「たぶん、

あんたは知らない」

「お父さんにもね」

顔を上げた。

「誰かに助けてもらった時期があったのよ」

くまは、

母を見つめた。

父が、

人を助けた話を聞きに来たはずだった。

なのに。

その話の向こう側に、

もう一つ、

知らない物語があった。

父が、

誰かを助ける前。

父自身も、

誰かに助けられていた。

くまは、

写真を見た。

人から人へ。

父から、

あの男性へ。

あの男性から、

別の若者へ。

そして、

そのもっと前にも、

何かがあった。

物語には、

始まりだと思っていた場所より、

さらに前がある。

母が、

静かに言った。

「その話」

「聞く?」

くまは、

しばらく黙っていた。

そして、

うなずいた。

「聞きたい」

母は、

一度だけ、

大きく息を吐いた。

それから、

父の写真を見ながら、

ゆっくり話し始めた。

「お父さんね――」

その先を、

くまは、

まだ知らなかった。

 


関連記事一覧|そうじ屋くま 目次

物語を最初から順番にお読みいただけます。公開予定の記事は、記載の日時以降にご覧ください。

はじめに

これから、小説『そうじ屋くま』を書いていこうと思います

『そうじ屋くま』 ― 人生の汚れは、落とせますか。―

第一部 はじまり

第一部 はじまり 第一章 そうじ屋になった日

第一部 はじまり 第二章 最初の「ありがとう」

第一部 はじまり 第三章 同じ仕事、違う一日

第一部 はじまり 第四章 名前をもらった日

第一部 はじまり 第五章 また来年

第一部 はじまり 第六章 きれいにならないもの

第一部 はじまり  第七章 仕事がない日

第一部 はじまり 第八章 失敗した日

第一部 はじまり 第九章 掃除屋の値段

第一部 はじまり 第十章 知らない町

第二部 つながり

第二部 つながり 第一章 三十年ぶりのLINE

第二部 つながり 第二章 また会う理由

第二部 つながり 第三章 誘わない理由

第二部 つながり 第四章 空っぽになった部屋

第二部 つながり 第五章 先生と飲む酒

第二部 つながり 第六章 名前も知らない人

第二部 つながり 第七章 直す人、捨てる人

第二部 つながり 第八章 帰る場所

第二部 つながり 第九章 ありがとう

第二部 つながり 第十章 こだわる理由

第三部 それでも

第三部 それでも 第一章 星三つの日

第三部 それでも 第二章 疑われた日

第三部 それでも 第三章 父を知る人(9月18日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第四章 知らない父(9月19日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第五章 裏口の灯り(9月20日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第六章 名前のない仕事(9月21日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第七章 手を貸す距離(9月22日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第八章 待つあいだ(9月23日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第九章 写真の余白(9月24日 8:08公開予定)

第三部 それでも 第十章 明日も行く(9月25日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間

第四部 となりの時間 第一章 二つの湯のみ(9月26日 8:08公開予定)

第四部 となりの時間 第二章 借りた椅子(9月27日 8:08公開予定)