第二部 つながり 

第十章 こだわる理由

 

 

仕事を終えて家に帰ったころ、スマホが鳴った。

近所に住む、幼馴染の先輩からだった。

「今日、飲まない?」

いつもの誘いだった。

 

僕は少し笑って、

「行きます」

と返した。

 

歩いて行ける距離に、こうして気軽に酒を飲める相手がいる。

考えてみれば、それだけでもありがたいことなのかもしれない。

先輩の家に着くと、テーブルにはすでに料理が並んでいた。

 

枝豆。

焼いた魚。

ちょっとした小鉢。

それから、酒に合いそうなつまみがいくつもある。

先輩は料理が好きだ。

ただ作るだけじゃない。

どうしたらもっとおいしくなるか。

どんな酒に合うか。

調味料を変えたり、焼き方を変えたり。

気になったら、とことん調べる。

 

「これも食べてみて」

そう言って、また一皿出してきた。

僕は笑った。

「毎回よくこんなに作るね」

先輩は別に大したことでもないような顔をしていた。

 

でも僕には分かる。

この人は、人に喜んでもらうのが好きなのだ。

その日の主役は料理だけではなかった。

テーブルの横には、何本ものウイスキーが並んでいた。

ボウモア。

ラフロイグ。

そして、青い箱に入ったキルホーマン。

「今日は飲み比べてみよう」

グラスに少しずつ注いでいく。

 

同じウイスキーなのに、香りが違う。

口に入れた瞬間の印象も違う。

煙のような香りが強いもの。

甘みを感じるもの。

しばらく口の中に香りが残るもの。

 

僕には細かいことまでは分からない。

それでも、こうして比べてみると違いは分かった。

「全然違うね」

僕が言うと、先輩は嬉しそうに説明を始めた。

 

作られた場所。

樽。

香り。

飲み方。

 

次から次へと話が出てくる。

本当に好きなんだな。

そう思った。

でも、話を聞いているうちに、ふと別のことを考えた。

――これ、掃除と似ているな。

 

エアコンなんて、どれも同じように見える。

洗濯機だってそうだ。

でも何百台、何千台と触っていると、少しずつ違いが見えてくる。

この機種は、ここに汚れが溜まりやすい。

この構造なら、ここを先に外したほうがいい。

同じ黒い汚れでも、落ち方が違う。

洗剤の濃さ。

水の当て方。

ブラシの角度。

 

最初のころは、そんなことまで考えていなかった。

ただ汚れを落とすことに必死だった。

でも、いつの間にか、

「もっときれいにできないかな」

と考えるようになっていた。

 

そして、

「どうしたら、お客さんがもっと喜んでくれるだろう」

とも考えるようになった。

 

先輩がまた料理を持ってきた。

今度は、いかだった。

香ばしい匂いがする。

「これ、うまいね」

そう言うと、

先輩は嬉しそうに笑った。

 

その顔を見て、なんとなく分かった気がした。

料理が好きだから、研究する。

酒が好きだから、研究する。

もちろん、それもある。

でも、それだけじゃない。

自分が工夫したものを誰かが食べて、

「うまい」

と言ってくれる。

選んだ酒を飲んだ人が、

「これ、いいね」

と言ってくれる。

その瞬間が嬉しいのだ。

 

僕も同じなのかもしれない。

掃除が終わって、

お客さんがエアコンの中をのぞき込む。

「うわ、きれいになった」

その一言で、

何時間も黙々と作業した疲れが、少し消える。

洗濯機を組み上げて、

お客さんが、

「これで安心して使えます」

と言ってくれる。

 

その言葉が嬉しくて、

また次の現場へ向かう。

十三年以上も掃除を続けてこられた理由。

それは、

掃除そのものが好きだからだけではないのかもしれない。

誰かが喜んでくれる。

その顔を見るのが好きだったのだ。

 

気がつけば、グラスの氷はだいぶ小さくなっていた。

テーブルには食べ終わった皿が並び、

ウイスキーの瓶が何本も立っている。

僕はグラスを眺めながら思った。

仕事も料理も、

最初から上手な人なんていない。

失敗して、

調べて、

試して、

また失敗して。

少しずつ自分なりのやり方を見つけていく。

 

そして不思議なことに、

誰かを喜ばせようと思えば思うほど、

もっと上手になりたくなる。

もっと知りたくなる。

こだわりが増えていく。

 

昔の僕なら、

「仕事なんだから、ちゃんとやるのは当たり前だ」

くらいに考えていたかもしれない。

でも今は少し違う。

仕事を続けていると、

効率とか、

売上とか、

件数とか、

そんな数字ばかり見てしまうことがある。

 

もちろん、それも大事だ。

僕だって商売をしている。

生活していかなければならない。

それでも、

仕事のいちばん根っこにあるものは、

案外もっと単純なのかもしれない。

目の前の人に、喜んでもらいたい。

それだけなのだ。

 

先輩は料理で。

僕は掃除で。

やっていることは全然違う。

それでも、

僕たちがこだわり続ける理由は、

案外同じなのかもしれない。

 

帰り道。

夜風が少し気持ちよかった。

近所だから、家まではすぐだ。

歩きながら、

僕は今日食べた料理と、

ウイスキーの香りを思い出していた。

そして、明日の仕事のことを考えた。

明日もまた、

誰かの家へ行く。

汚れたものをきれいにする。

いつもと同じ仕事だ。

 

だけど、

いつもと同じでいいとは思わない。

昨日より少しだけ丁寧に。

昨日より少しだけ上手に。

そして、

目の前の人が少しでも喜んでくれたら、

それでいい。

 

たぶん、こだわるっていうのは、

自分のためだけじゃない。

誰かに喜んでもらいたいと思ったとき、
人は自然と、こだわり始めるのだ。

そう思ったら、

明日の仕事が、

ほんの少し楽しみになった。

 

第二部 つながり 

第九章 ありがとう

その依頼は、

レンジフードのクリーニングだった。

築年数の経った、

小さな一軒家。

玄関の横には、

古い植木鉢が並んでいた。

 

くまは道具を持って、

インターホンを押した。

「おはようございます。そうじ屋くまです」

少しして、

扉が開いた。

 

出てきたのは、

六十代後半くらいの女性だった。

「今日はよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

案内されたキッチンは、

きれいに片づいていた。

物は少ない。

調味料も、

ほとんど出ていない。

 

ただ、

レンジフードだけは、

長い間掃除されていないようだった。

油が固まり、

フィルターは茶色くなっている。

 

「結構、年数経ってますね」

くまが言うと、

女性は少し困ったように笑った。

「そうなの」

「ずっと、やってなくて」

くまは養生を始めた。

 

「最後に掃除したのって、いつ頃ですか?」

女性は、

少し考えた。

「三年くらい前かな」

そして、

付け足すように言った。

「主人がいた頃だから」

くまの手が、

ほんの少し止まった。

 

「そうだったんですね」

それ以上は聞かなかった。

レンジフードのカバーを外す。

フィルターを外す。

油に固まった部品を、

一つずつ外していく。

 

女性は、

しばらくそばで見ていた。

「すごいね」

「こんなに外れるのね」

「そうですね」

くまは笑った。

 

「普段見えないところに、結構たまるんですよ」

女性は、

レンジフードの奥を見た。

そして、

小さく言った。

「主人がよく掃除してくれてたの」

くまは黙って、

手を動かした。

 

女性は続けた。

「私は料理担当」

「主人は掃除担当」

少し笑った。

「勝手に決めてたんだけどね」

くまも笑った。

 

「いい分担ですね」

「そうね」

そのあと、

女性は静かになった。

しばらくして、

リビングへ戻っていった。

くまは一人で、

作業を続けた。

 

固まった油を、

少しずつ落としていく。

一気には落ちない。

洗剤をなじませる。

待つ。

こする。

拭く。

また洗剤をつける。

少しずつ、

元の金属の色が戻ってくる。

 

こういう作業をしていると、

頭の中が静かになる。

余計なことを考えなくなる。

目の前の汚れだけを見る。

落ちる。

また落ちる。

さらに落ちる。

 

掃除は、

正直だった。

手を動かせば、

その分だけ変わる。

時間をかければ、

少しずつ結果が出る。

だから、

くまはこの仕事が嫌いではなかった。

 

むしろ、

好きだった。

人生も、

こんなふうだったらいいのに。

そう思うことがある。

 

努力すれば、

必ずきれいになる。

正しいやり方をすれば、

元へ戻る。

でも、

人の気持ちは、

そうはいかない。

亡くなった人も、

戻らない。

 

昼近くになった。

女性が、

コーヒーを持ってきた。

「少し休んでください」

「ありがとうございます」

くまは手袋を外した。

コーヒーを受け取る。

 

小さなお皿には、

クッキーが二枚乗っていた。

「いただきます」

女性は、

向かいの椅子へ座った。

何となく、

二人ともキッチンを見ていた。

 

「主人が亡くなってからね」

女性が突然言った。

くまは、

コーヒーカップを持ったまま、

女性を見た。

 

「料理しなくなっちゃったの」

女性は笑った。

でも、

その笑い方は、

少し寂しかった。

 

「一人分ってね」

「作る気にならないのよ」

くまは何も言わなかった。

「昔は毎日作ってたのよ」

「主人が、何でもよく食べる人だったから」

女性の目線が、

キッチンの奥へ向いた。

「肉じゃがが好きでね」

「またこれ?」

「って言いながら、全部食べるの」

女性は笑った。

 

くまも、

少し笑った。

「じゃあ、本当は好きだったんですね」

「そうなのよ」

「文句言いながら、おかわりするの」

女性は笑った。

 

でも、

そのあと、

急に黙った。

しばらく、

時計の音だけが聞こえた。

くまはコーヒーを一口飲んだ。

 

女性が、

ぽつりと言った。

「最後の日もね」

「肉じゃがだったの」

くまは、

カップを置いた。

女性は、

テーブルの一点を見ていた。

 

「朝は普通だったの」

「本当に、普通」

「行ってきますって出ていって」

「私は、夕飯のこと考えてて」

「今日は肉じゃがにしようかなって」

少し間があった。

「でも、帰ってこなかった」

 

くまは、

言葉が出なかった。

女性は続けた。

「病院から電話が来てね」

「急だったの」

「何が何だか分からなくて」

指で、

カップの縁をなぞった。

「作った肉じゃがだけ、

ずっと鍋に残ってた」

 

その言葉で、

くまの胸の奥が、

少し痛くなった。

父が亡くなった日のことを、

思い出した。

 

突然だった。

昨日までいた人が、

今日はいない。

なのに、

家の中には、

その人がいた形だけが残っている。

靴。

服。

コップ。

椅子。

使いかけの物。

人だけが、

いない。

 

女性が言った。

「捨てられなくてね」

「三日くらい、

そのままにしてたの」

くまは、

何も言えなかった。

「馬鹿でしょう」

女性が笑った。

 

くまは首を振った。

「いや」

それだけ言った。

気の利いた言葉なんて、

思いつかなかった。

「元気出してください」

そんなことは、

言えなかった。

 

大切な人を失った悲しみを、

数分しか知らない他人が、

簡単に片づけることなんてできない。

だから、

くまは、

ただそこにいた。

女性は、

少しだけ目を赤くしていた。

 

やがて、

自分から笑った。

「ごめんなさいね」

「掃除に来てもらったのに、

変な話しちゃって」

「いえ」

くまは言った。

「大丈夫です」

それ以上は、

何も言わなかった。

 

休憩を終えた。

また、

作業へ戻った。

さっきまでと、

同じレンジフード。

同じ油汚れ。

同じ洗剤。

同じ道具。

なのに、

少しだけ違って見えた。

 

このレンジフードの下で、

何年も料理をしていた女性がいる。

その料理を食べていた男性がいる。

「またこれ?」

と言いながら、

肉じゃがをおかわりしていた。

 

その横で、

女性が笑っていた。

そんな時間が、

ここにあった。

 

くまは、

少しだけ丁寧に、

手を動かした。

もちろん、

話を聞いたからといって、

急に仕事の質を変えるわけではない。

 

いつだって、

きちんとやる。

でも、

その日は、

部品を拭く一つ一つの手つきに、

自然と力が入った。

この汚れの向こうに、

暮らしがあった。

そう思った。

 

午後二時。

作業が終わった。

レンジフードは、

見違えるようになった。

くまは、

最後に全体を拭き上げた。

「終わりました」

女性を呼んだ。

 

女性がキッチンへ来た。

そして、

しばらく何も言わなかった。

レンジフードを見る。

コンロを見る。

きれいになったキッチンを、

ゆっくり見回した。

 

「……きれい」

小さな声だった。

「こんな色だったのね」

くまは笑った。

「油で結構変わりますからね」

女性は、

レンジフードを見上げたまま、

立っていた。

しばらくして、

コンロへ目を移した。

 

そして、

突然言った。

「今日」

くまは女性を見た。

「何か作ってみようかな」

くまは、

何も言えなかった。

女性は続けた。

「ずっと、

お惣菜とか、

簡単なもので済ませてたんだけど」

コンロを指で触った。

「なんか、

久しぶりに作ってみようかな」

 

少し笑った。

「肉じゃがでも」

その瞬間。

くまは、

胸の奥が熱くなった。

でも、

顔には出さなかった。

「いいですね」

それだけ言った。

女性が笑った。

「またこれ?」

「って言われるかな」

その言葉を聞いて、

くまは一瞬、

返事に迷った。

そして、

笑って言った。

「たぶん」

「おかわりするんじゃないですか」

 

女性は、

口元を押さえた。

笑ったのか。

泣いたのか。

くまには、

分からなかった。

でも、

少しだけ肩が震えていた。

くまは、

視線を外した。

道具を片づける。

こういうとき、

見ないふりをするのも、

仕事なのだと思った。

 

玄関。

靴を履く。

女性が、

封筒を差し出した。

料金だった。

くまは受け取った。

昔から、

お金をもらう瞬間は、

少し苦手だった。

掃除をして、

料金をもらう。

それが仕事なのに、

最初の頃は、

こんなにもらっていいのだろうか、

と思うことがあった。

 

ただ汚れを落としただけなのに。

そんな気持ちが、

どこかに残っていた。

女性が言った。

「本当にありがとう」

くまは頭を下げた。

「こちらこそ、

ありがとうございました」

扉を開けようとしたときだった。

 

後ろから、

女性が言った。

「あなた、

いい仕事ね」

 

くまは振り返った。

女性は、

さっきよりも穏やかな顔をしていた。

「人の家を、

きれいにする仕事」

 

少し間を置いた。

 

「人の気持ちまで、

少しきれいにしてくれるのね」

 

くまは、

何も言えなかった。

そんな大したことをしたとは、

思わなかった。

夫を取り戻したわけではない。

悲しみを消したわけでもない。

女性の人生を変えたわけでもない。

 

ただ、

レンジフードを掃除しただけだった。

それでも、

女性は笑っていた。

「ありがとうございました」

 

くまは、

もう一度頭を下げた。

外へ出た。

扉が閉まる。

道具を車へ積んだ。

運転席に座る。

エンジンをかけようとした。

でも、

かけなかった。

しばらく、

ハンドルに手を置いたまま、

動けなかった。

さっきの言葉が、

頭から離れなかった。

「いい仕事ね」

 

 

昔。

ホテルで働いていた頃。

尊敬していた先輩から、

言われた言葉を思い出した。

――仕事をするときに、

一番大事なのは感謝だ。

――人は、

感謝されることで幸せになれる。

――だから、

誰かに感謝される仕事なら、

迷わずやりなさい。

 

あの頃は、

分かったような気になっていた。

でも、

本当の意味は、

分かっていなかったのかもしれない。

感謝される仕事。

それは、

「ありがとう」と言われる仕事という意味だけではなかった。

誰かが、

昨日より少しだけ前を向く。

何かをやってみようと思う。

一歩だけ動いてみる。

そのきっかけに、

自分の仕事がなることがある。

 

それを、

今日初めて知った気がした。

くまは、

車のフロントガラス越しに、

さっきの家を見た。

カーテンが少し動いた。

 

その奥に、

女性の姿が見えた。

キッチンへ向かっているようだった。

くまは、

なぜか目を離せなかった。

数分後。

女性が、

買い物袋を持って、

玄関から出てきた。

 

くまは驚いて、

少し身を低くした。

別に隠れる必要はないのに。

女性は、

くまの車には気づかず、

ゆっくり歩いていった。

スーパーへでも、

行くのだろう。

くまは、

その後ろ姿を見ていた。

肉じゃがの材料を、

買いに行くのかもしれない。

じゃがいも。

玉ねぎ。

にんじん。

肉。

醤油。

砂糖。

たったそれだけのことだった。

でも、

夫を亡くしてから、

料理をしなくなった人が、

今日、

もう一度台所に立とうとしている。

 

くまは、

鼻の奥が熱くなった。

慌てて、

前を向いた。

「……歳かな」

一人で言った。

目をこすった。

エンジンをかける。

車を走らせた。

 

その日の仕事は、

もう一件残っていた。

次は、

エアコンクリーニング。

また、

知らない家。

知らない人。

いつもの仕事だ。

でも、

朝とは少し違っていた。

自分の仕事が、

ほんの少しだけ、

好きになっていた。

夕方。

すべての仕事を終えた。

 

帰り道。

スーパーの前を通った。

くまは、

何となく車を停めた。

店へ入る。

シュークリームを一つ買った。

車へ戻る。

袋を開ける。

一口食べる。

クリームが、

たっぷり入っていた。

「当たりだ」

小さく笑った。

 

父のことを思い出した。

もし、

今も生きていたら。

自分の仕事を見て、

何と言っただろう。

ちゃんとやってるな。

そう言ってくれただろうか。

あるいは、

何も言わず、

いつものように笑っただろうか。

分からない。

もう、

聞くことはできない。

 

でも、

今日、

一人の知らない女性が、

代わりに言ってくれた気がした。

「いい仕事ね」

 

くまは、

シュークリームを食べ終えた。

夕焼けの中、

車を走らせる。

掃除には、

できないことがたくさんある。

亡くなった人を、

戻すことはできない。

孤独を、

完全に消すこともできない。

過ぎた時間を、

元へ戻すこともできない。

 

でも、

きれいになったキッチンを見て、

「今日、料理してみようかな」

と思う人がいる。

それなら。

この仕事には、

汚れを落とす以上の何かが、

ほんの少しだけ、

あるのかもしれない。

その答えを、

くまはまだ知らなかった。

 

ただ、

一つだけ、

昨日までとは違っていた。

お金を受け取ることへの、

あの小さな迷いが、

少しだけ減っていた。

 

自分は、

ただ掃除をしているわけではない。

誰かの暮らしが、

また動き出すための場所を、

少しだけ整えている。

そう思えた。

 

翌朝。

くまは、

いつものように黒いTシャツを着た。

車へ道具を積む。

今日の住所を確認する。

知らない名前。

知らない家。

また、

誰かの暮らしの中へ入る。

くまは車を走らせた。

 

そして、

昨日より少しだけ、

この仕事をしている自分を、

誇らしく思っていた。

それは、

そうじ屋になってから初めてもらった、

本当の意味での、

「ありがとう」

だったのかもしれない。

 

第二部 つながり

第八章 帰る場所

その日の最後の仕事は、

夕方からのエアコンクリーニングだった。

少し予定より時間がかかった。

作業を終えて外へ出ると、

もう辺りは暗くなっていた。

「ありがとうございました」

お客様に頭を下げる。

 

道具を車へ積む。

運転席に座って、

時計を見る。

午後七時を少し過ぎていた。

「腹減ったな」

くまは一人でつぶやいた。

 

エンジンをかける。

ナビには、

自宅まで四十分と表示されていた。

昼間は仕事のことばかり考えている。

次の住所。

到着時間。

駐車場所。

作業内容。

忘れ物。

そんなことを考えながら、

知らない町を走り回る。

 

でも、

最後の仕事が終わると、

急に目的地が一つだけになる。

家だった。

くまは夜の道を走った。

信号で停まる。

道路の向こうに、

明かりのついた家が並んでいる。

カーテンの隙間から、

リビングの灯りが見える。

ある家では、

家族が食卓を囲んでいた。

別の家では、

子どもがテレビの前を走っていた。

玄関先で、

仕事帰りらしい男性を迎えている家もあった。

 

くまは、

何となくその景色を見ていた。

みんな、

帰っていく。

仕事から。

学校から。

買い物から。

それぞれの一日を終えて、

それぞれの場所へ帰っていく。

当たり前の景色だった。

くまにも、

帰る家がある。

 

でも、

家に帰れば誰かが、

「おかえり」

と言ってくれるわけではない。

離婚してから、

一人で家へ帰ることにも慣れた。

鍵を開ける。

電気をつける。

テレビをつける。

夕飯を食べる。

風呂に入る。

寝る。

 

最初の頃は、

その静けさが妙に広く感じる夜もあった。

今は、

それも自分の日常になった。

一人は、

気楽だった。

何時に帰ってもいい。

何を食べてもいい。

休みの日に、

一日何もしなくても誰にも文句を言われない。

テレビのチャンネル争いもない。

風呂の順番もない。

自由だった。

でも、

自由と寂しさというものは、

ときどき同じ部屋に住んでいる。

普段は、

それほど気にならない。

仕事をしている。

友人と飲む。

LINEも来る。

やることもある。

 

でも、

ふとした瞬間に、

その存在に気づく。

くまはコンビニへ寄った。

夕飯を買う。

弁当。

飲み物。

そして、

シュークリーム。

 

レジへ向かおうとして、

少し離れたところにいる老夫婦が目に入った。

「これでいい?」

妻らしい女性が、

弁当を見せている。

男性が答えた。

「俺、そっちじゃなくてこっちがいい」

「じゃあ自分で取りなさいよ」

「はいはい」

二人とも、

特に楽しそうではなかった。

むしろ、

ちょっと面倒くさそうだった。

くまは、

なんとなく笑った。

たぶん、

ああいうものなのだ。

毎日一緒にいるというのは。

 

いつも感動して、

いつも相手を大切に思って、

毎晩幸せを噛みしめているわけではない。

「それ取って」

「電気消して」

「牛乳ないよ」

「ゴミ出してきて」

そんな、

どうでもいい言葉を何年も繰り返す。

でも、

誰かがいなくなったあと、

意外と恋しくなるのは、

そういう言葉なのかもしれない。

くまはシュークリームを、

かごへ入れた。

家へ帰った。

鍵を開ける。

部屋は暗かった。

電気をつける。

「ただいま」

誰に言うわけでもなく、

口から出た。

返事はない。

分かっている。

 

それでも、

ときどき言う。

買ってきた弁当をテーブルに置く。

テレビをつける。

着替える。

冷蔵庫から飲み物を出す。

いつもの夜だった。

弁当を食べながら、

第五章で一緒に酒を飲んだ先生の言葉を思い出した。

「こうしてお互い健康で、楽しく酒が飲める。これだけで幸せだな」

 

あの夜は、

三人だった。

今夜は、

一人だった。

では、

今夜は幸せではないのだろうか。

くまは、

そんなことを考えた。

違う気がした。

一人でいることと、

不幸であることは、

同じではない。

誰かといることと、

幸せであることも、

たぶん同じではない。

結婚していた頃だって、

寂しい夜はあった。

一人になってからだって、

楽しい夜はいくらでもあった。

友人と飲んで、

腹が痛くなるほど笑った夜。

仕事がうまくいって、

一人で少しうれしくなった夜。

好きな映画を観ながら、

何も考えずに過ごした夜。

シュークリームが、

思ったよりうまかった夜。

 

幸せというのは、

人数で決まるものでもないらしい。

食事を終えた。

シュークリームの袋を開ける。

一口食べる。

クリームがたっぷり入っていた。

「今日も当たりだな」

昨日のクリームパンに続いて、

二日連続だった。

こういう運は、

できれば別のところでも使いたい。

 

くまは少し笑った。

スマートフォンが鳴った。

画面を見る。

友人からだった。

「今度飲もう」

くまは、

「いいね」

と返した。

少しして、

別の通知が来た。

仕事の予約だった。

明日の予定が一つ増えた。

くまはカレンダーへ入力した。

誰かと暮らしていなくても、

人とのつながりがなくなるわけではない。

 

家族。

友人。

昔の先生。

仕事で出会う人。

もう会わない人。

これから会う人。

一緒に住んでいなくても、

自分の人生にいる人は、

思っているよりたくさんいる。

 

くまはテレビを消した。

部屋が静かになった。

窓の外を見る。

向かいのマンションには、

いくつもの明かりがついていた。

あの窓の一つ一つに、

誰かの暮らしがある。

家族で暮らしている人。

夫婦二人の人。

子どもと暮らす人。

一人暮らしの人。

帰りを待っている人。

帰りを待つ人がいない人。

 

きっと、

いろいろだ。

くまは思った。

帰る場所というのは、

家だけではないのかもしれない。

「また飲もう」

と言ってくれる人がいる。

久しぶりに会っても、

昔のように話せる人がいる。

 

仕事へ行けば、

「くまさん」

と呼んでくれる人がいる。

母のところへ行けば、

昔から変わらない花が咲いている。

父はもういない。

それでも、

父からもらった名前で、

今日も生きている。

自分が戻れる場所は、

一つではない。

人の中にも、

記憶の中にも、

仕事の中にもある。

そう考えると、

静かな部屋が、

さっきより少しだけ違って見えた。

 

寂しさが消えたわけではない。

一人でいる夜には、

一人でいる夜の寂しさがある。

それを、

無理になくす必要もないのだと思った。

寂しいから、

誰かに会いたくなる。

会いたいから、

連絡する。

誘われたら、

うれしい。

一緒に飯を食べる。

酒を飲む。

笑う。

そして、

また一人で家へ帰る。

 

それを繰り返しながら、

人は誰かとつながっているのかもしれない。

くまは風呂へ入った。

明日の仕事のことを考える。

朝九時。

エアコンクリーニング。

そのあと、

洗濯機。

また知らない家へ行く。

知らない人に会う。

そして、

仕事が終われば、

またここへ帰ってくる。

 

布団へ入った。

部屋の明かりを消す。

真っ暗になる。

しばらくすると、

外を走る車の音が聞こえた。

くまは目を閉じた。

昔は、

帰る場所というのは、

誰かが待っている場所だと思っていた。

 

でも、

それだけではないのかもしれない。

一日を終えて、

自分に戻れる場所。

また明日、

外へ出ていくために休める場所。

 

誰も待っていなくても、

「ただいま」

と言える場所。

それも、

立派な帰る場所なのだ。

 

翌朝。

目覚ましが鳴った。

くまは起きた。

カーテンを開ける。

朝の光が入ってきた。

顔を洗う。

朝飯を食べる。

黒いTシャツに着替える。

道具を持って外へ出た。

昨日帰ってきた家から、

今日また出ていく。

車に道具を積む。

運転席に座る。

エンジンをかける。

ナビに、

今日最初の住所を入れた。

知らない名前。

知らない家。

でも、

そこには誰かが待っている。

 

くまは車を走らせた。

帰る場所があるから、

出かけられる。

出かけるから、

また帰ってこられる。

その繰り返しの中で、

人は少しずつ、

自分の居場所を増やしていくのかもしれない。

今日も、

そうじ屋くまの一日が始まった。

 

第二部 つながり

第七章 直す人、捨てる人

その日の一件目は、

エアコンクリーニングだった。

朝九時。

くまは住宅街にある一軒家の前に車を停めた。

道具を降ろす。

インターホンを押す。

「おはようございます。そうじ屋くまです」

扉を開けたのは、

六十代くらいの男性だった。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

案内されたのは、

二階の寝室だった。

壁には、

少し古いエアコンがついていた。

くまは型番を確認した。

それなりに年数は経っている。

けれど、

まだ普通に動いていた。

「これ、結構古いですよね」

男性が言った。

「そうですね。長く使われてますね」

「買い替えようかとも思ったんですけどね」

男性はエアコンを見上げた。

「まだ動くから、もったいなくて」

くまは養生を始めた。

掃除屋を長くしていると、

「まだ使えるから」

という言葉をよく聞く。

 

昔は、

単純に物を大切にしているのだと思っていた。

もちろん、

それもある。

でも、

仕事を続けているうちに、

それだけではないことも分かってきた。

人が物を捨てられない理由は、

まだ使えるからとは限らない。

そこに、

思い出が残っていることがある。

くまはエアコンのカバーを外した。

フィルターには、

ホコリが積もっていた。

内部をライトで照らす。

黒い汚れも見える。

洗浄の準備をする。

男性は、

しばらく作業を見ていた。

やがて、

部屋の隅にある小さな机へ向かった。

そこには、

古いラジオが置いてあった。

今では、

あまり見かけない形だった。

男性はラジオを持ち上げると、

裏側を見た。

そして、

ドライバーを持ってきた。

ネジを外し始める。

くまは少し気になった。

「それ、直してるんですか?」

男性が笑った。

「いや、直るか分からないけどね」

ラジオのスイッチを触る。

何も聞こえない。

「音が出なくなっちゃって」

「古そうですね」

「古いよ」

男性は、

ラジオを見ながら言った。

「親父のだから」

くまの手が、

ほんの少し止まった。

「そうなんですね」

「実家を片づけたときにね」

男性は、

ラジオについたホコリを指で払った。

「これだけ持ってきたんです」

「父がいつも聴いてたから」

ラジオの表面には、

小さな傷がいくつもついていた。

角も少し擦れている。

新品なら、

気になる傷かもしれない。

でも、

長く使われた物についていると、

その傷まで、

その物の一部に見えた。

「もう新しいの買ったほうが早いんだけどね」

男性は笑った。

「でも、なんとなく捨てられなくて」

 

くまは、

その言葉を聞きながら、

エアコンの洗浄を始めた。

新しい物を買ったほうが早い。

たしかに、

そういう物は多い。

壊れたら、

買い替える。

古くなったら、

新しい物にする。

そのほうが便利なこともある。

安く済むことさえある。

でも、

値段では決められない物がある。

くまにも、

覚えがあった。

父が亡くなったあと、

家には父が使っていた物が残った。

服。

靴。

日用品。

高価な物ではない。

同じような物なら、

いくらでも買える。

もっと新しくて、

便利な物だってある。

でも、

それでは同じではなかった。

物が大切なのか。

その人との記憶が大切なのか。

たぶん、

きれいに分けることはできない。

物に触れると、

人を思い出す。

人を思い出すから、

その物を捨てられない。

くまは、

黙ってエアコンを洗った。

しばらくして。

部屋の隅から、

小さな音が聞こえた。

雑音だった。

くまは振り返った。

男性が、

ラジオのつまみをゆっくり回している。

雑音の向こうから、

かすかに人の声が聞こえてきた。

男性の顔が変わった。

「おっ」

もう一度、

つまみを動かす。

今度は、

少しはっきり聞こえた。

ラジオだった。

「ついた」

男性が笑った。

くまも思わず笑った。

「直ったんですか?」

「たぶん、接触が悪かっただけみたい」

ラジオから、

昼の番組が流れていた。

ニュース。

天気予報。

知らない人の話し声。

特別な放送ではない。

でも、

男性はしばらく、

その音を聞いていた。

「親父もね」

男性が言った。

「よくこうやって聴いてたんですよ」

それだけ言って、

少し笑った。

 

くまは、

また作業へ戻った。

でも、

なぜかその言葉が残った。

直ったのは、

ただのラジオだった。

亡くなった父親が、

戻ってくるわけではない。

昔へ戻れるわけでもない。

過ぎた時間は、

どれだけ直そうとしても、

元には戻らない。

それでも、

昔と同じ音が聞こえた瞬間、

その人の中では、

何かが少しだけ戻ってきたのかもしれない。

父親がラジオを聴いていた姿。

同じ部屋にいた時間。

声。

匂い。

何でもない日の記憶。

一つの音が、

昔の時間と、

今の時間をつなぐことがある。

 

午後。

エアコンの洗浄が終わった。

部品を戻す。

カバーを取りつける。

試運転をする。

冷たい風が出た。

「まだ大丈夫そうですね」

くまが言うと、

男性はエアコンを見上げた。

「じゃあ、もう少し頑張ってもらうか」

まるで、

古い友人に話しかけるように言った。

その横では、

古いラジオが、

まだ鳴っていた。

くまは道具を片づけながら思った。

新しい物に替えることが、

悪いわけではない。

必要なら、

替えればいい。

掃除屋をしていれば、

どうしても無理な物にも出会う。

汚れではなく、

素材そのものが劣化している。

部品が壊れている。

掃除でどうにかなる状態ではない。

そんなときは、

「そろそろ買い替えたほうがいいかもしれません」

と伝えることもある。

何でも、

残せばいいわけではない。

手放したほうがいい物もある。

でも、

何でも捨てれば、

前へ進めるわけでもない。

残しておくことで、

前へ進めるものもあるのかもしれない。

玄関へ向かった。

「今日はありがとうございました」

男性が言った。

「こちらこそ、ありがとうございました」

くまは頭を下げた。

 

外へ出る。

車に道具を積む。

次の仕事まで、

少し時間があった。

くまはコンビニへ寄った。

コーヒー。

そして、

クリームパン。

車に戻る。

袋を開ける。

一口食べる。

思ったより、

クリームが多かった。

くまは、

パンの中を見た。

「当たりだな」

一人で言った。

こういう小さな当たりは、

ちょっとうれしい。

コーヒーを飲みながら、

さっきのラジオを思い出した。

人は、

いろいろなものを手放しながら生きていく。

子どもの頃の服。

昔住んでいた家。

使わなくなった物。

終わった仕事。

離れていった人。

終わった恋。

ずっと、

同じ形で持っていることはできない。

だから、

手放すことも必要なのだと思う。

でも、

手放さなくていいものもある。

父との思い出。

誰かにもらった言葉。

昔の友人との記憶。

失敗から学んだこと。

誰かと一緒に笑った夜。

形がなくなっても、

残しておけるものがある。

 

逆に、

形を残しておくことで、

思い出せるものもある。

あの男性にとっては、

それがラジオだった。

くまにとっては、

何だろう。

父のことを考えた。

もう、

話すことはできない。

一緒に飯を食べることも。

酒を飲むことも。

新しい思い出を作ることもできない。

でも、

父の名前にあった「くま」を、

自分の仕事の名前として使っている。

今日も、

知らない人の家へ行って、

「そうじ屋くまです」

と名乗った。

考えてみれば、

これも一つの残し方なのかもしれない。

 

人は、

いなくなった人を、

そのまま残しておくことはできない。

でも、

その人から受け取ったものを、

別の形で使い続けることはできる。

名前。

言葉。

考え方。

料理の味。

笑い方。

癖。

人への接し方。

自分では気づいていないところにまで、

誰かから受け取ったものは残っている。

人は、

誰かを少しずつ受け継ぎながら、

生きているのかもしれない。

 

くまは、

クリームパンを食べ終えた。

午後の仕事へ向かう。

次は、

浴室クリーニングだった。

ナビをセットする。

車を走らせる。

信号待ち。

道路の向こうを、

一人の老人が歩いていた。

古い自転車を押している。

前かごには、

買い物袋が入っていた。

自転車は、

ところどころ錆びている。

でも、

老人は当たり前のように、

その自転車を押して歩いていた。

新しいもののほうが、

便利なことは多い。

きれいで、

性能もいい。

でも、

長く一緒にいたものにしかないものもある。

 

くまは、

青信号を待った。

その日の夕方。

仕事を終えて家へ帰った。

車から道具を降ろす。

使った道具を片づける。

汚れたタオルをまとめる。

いつものように、

一日が終わっていく。

その夜。

くまは部屋で、

何となく身の回りを見た。

新しい物。

古い物。

よく使う物。

ほとんど使わない物。

いつか捨てようと思いながら、

ずっと置いてある物。

必要かと聞かれたら、

必要ではないものもある。

でも、

捨てられないものもある。

昔は、

片づけというのは、

いらない物を捨てることだと思っていた。

物が減れば、

部屋はすっきりする。

確かにそうだ。

でも、

第四章で掃除した、

あの空っぽになっていく部屋を思い出した。

物がなくなれば、

部屋は広くなる。

きれいにもなる。

でも、

大切なものまで全部なくなれば、

ただ空っぽになる。

掃除屋だからといって、

何でもきれいにすればいいわけではない。

汚れを落としすぎれば、

素材を傷めることがある。

磨きすぎれば、

表面を削ってしまうこともある。

落とすべきものと、

残すべきもの。

その違いを見ることも、

掃除の仕事だった。

 

人生も、

少し似ているのかもしれない。

嫌だった出来事。

失敗。

別れ。

後悔。

できることなら、

全部きれいに消してしまいたいと思うことがある。

でも、

本当に全部消えてしまったら、

今の自分も、

少し違う人間になってしまうのかもしれない。

失敗したから、

気をつけるようになった。

別れたから、

人の気持ちを考えるようになった。

父を亡くしたから、

一緒にいられる時間を、

以前より大切に思うようになった。

消したいと思っていたものの中にも、

今の自分を作ったものがある。

もちろん、

ずっと抱えて苦しくなるものなら、

手放したほうがいい。

全部を、

美しい思い出にする必要もない。

許せないことを、

無理に許す必要もない。

ただ、

残ったものを、

全部「いらないもの」にしなくてもいい。

くまは、

そんなことを思った。

 

次の日。

また仕事へ向かった。

昨日とは違う町。

違う家。

違うエアコン。

信号で停まる。

ふと、

昨日の古いラジオを思い出した。

今頃も、

あの家で鳴っているだろうか。

男性は、

今日も聞いているだろうか。

分からない。

たぶん、

もう会うこともない。

でも、

あのラジオの音は、

くまの中に少し残っていた。

昨日、

一台の古いエアコンがきれいになった。

一台の古いラジオから、

もう一度、

音が出た。

たった、

それだけの一日だった。

でも、

そんな一日の中にも、

人が何を大切にして生きているのかが、

ほんの少し見えることがある。

信号が青になった。

くまは車を走らせた。

手放したほうがいいものがある。

残しておきたいものもある。

その違いを、

誰かが決めてくれるわけではない。

自分で、

一つずつ決めていくしかない。

掃除も、

人生も。

何でも捨てれば、

きれいになるわけではない。

大切なものまで捨ててしまったら、

ただ、

空っぽになるだけなのだから。

第二部 つながり

第六章 名前も知らない人

掃除屋の仕事をしていると、

毎日のように、知らない人の家へ行く。

昨日まで、

名前も知らなかった人。

行ったことのない町。

通ったことのない道。

予約が入る。

住所を確認する。

車を走らせる。

そして、

知らない家のインターホンを押す。

「おはようございます。そうじ屋くまです」

扉が開く。

そこから数時間だけ、

くまは、その人の暮らしの中へ入る。

 

考えてみれば、

不思議な仕事だった。

その日の依頼は、

ドラム式洗濯機のクリーニングだった。

少し離れた町にある一軒家。

玄関を開けてくれたのは、

七十代くらいの女性だった。

「今日はよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

案内された脱衣所には、

少し年数の経った洗濯機が置かれていた。

 

くまは型番を確認する。

動作を確認する。

床を養生する。

道具を並べる。

いつもの仕事が始まった。

カバーを外す。

ネジを外す。

普段は見えない場所が、

少しずつ見えてくる。

ホコリ。

洗剤の残り。

湿った汚れ。

 

女性は、

少し離れたところから見ていた。

「まあ……こんなに外すんですね」

「そうですね。中は普段見えないですからね」

女性は、

洗濯機の中をのぞき込んだ。

「こんなに汚れてたの」

くまは笑った。

「毎日使うものですからね」

女性はしばらく作業を見たあと、

リビングへ戻っていった。

脱衣所に、

くま一人になった。

部品を外す。

汚れを取る。

洗浄する。

また次の部品へ。

いつもの作業だった。

一時間ほど経った頃。

女性が戻ってきた。

 

手には、

小さなトレーを持っていた。

コーヒー。

そして、

小さなお菓子。

「よかったら、これ」

「ありがとうございます」

「休みながらやってくださいね」

「いただきます」

女性は笑って、

またリビングへ戻った。

くまは手袋を外した。

コーヒーを一口飲む。

お菓子も一つ食べた。

甘かった。

疲れているときの甘いものは、

だいたい正しい。

少し休んで、

また作業へ戻った。

 

リビングからテレビの音が聞こえる。

しばらくすると、

女性が誰かと電話をしている声が聞こえてきた。

話の内容までは分からない。

ただ、

楽しそうに笑っていた。

くまは手を動かしながら、

ふと思った。

この人にも、

自分の知らない人生がある。

当たり前のことだった。

でも、

掃除の仕事をしていると、

ときどきその当たり前を、

妙に強く感じることがある。

目の前にいるのは、

「洗濯機クリーニングを頼んだお客様」

それだけではない。

この女性にも、

子どもの頃があった。

学校へ行った。

友達がいた。

好きな人がいたかもしれない。

誰かと喧嘩したこともあるだろう。

結婚したのかもしれない。

子どもを育てたのかもしれない。

うれしくて眠れなかった夜も、

悲しくて眠れなかった夜も、

あったのかもしれない。

 

くまが知っているのは、

その人生の、

ほんの数時間だけだった。

作業を始めて、

二時間ほど経った頃だった。

女性がまた、

脱衣所へやってきた。

きれいになっていく洗濯機を見て、

「すごいですね」

と笑った。

そして、

洗濯機に手を触れた。

「これね」

女性が言った。

「主人が買ってくれた洗濯機なんです」

くまは手を止めた。

「そうなんですね」

「もう亡くなって五年になるんですけどね」

女性は、

洗濯機を見たまま続けた。

「最後に二人で買った家電なんです」

くまも、

洗濯機を見た。

ほんの少し前まで、

ただの仕事の対象だった。

メーカー。

型番。

構造。

汚れ。

ネジの位置。

外し方。

そんなことしか見ていなかった。

でも、

その一言を聞いたあと、

同じ洗濯機が、

少し違って見えた。

 

女性は言った。

「新しいのに買い替えようかとも思ったんですけどね」

少し笑った。

「まだ動くし」

それから、

少し間を置いた。

「もう少し、使おうかなって」

「そうだったんですね」

くまは、

それ以上聞かなかった。

何か、

気の利いた言葉を言おうとも思わなかった。

ただ、

作業へ戻った。

汚れを落とす。

細かなホコリを取る。

部品を洗う。

もちろん、

それまで雑にやっていたわけではない。

どんな洗濯機でも、

きちんと仕事をする。

それは変わらない。

でも、

その洗濯機に込められたものを知ってしまうと、

扱う手が少しだけ変わる気がした。

物には、

値段では分からない価値がある。

同じ型番の洗濯機なら、

世の中に何台もある。

もっと新しい洗濯機もある。

性能のいい洗濯機もある。

でも、

「主人と最後に買った洗濯機」

は、

この一台しかない。

そう考えると、

物というのは不思議だった。

何でできているかではなく、

誰と使ったかで、

意味が変わることがある。

 

くまは、

部品を元へ戻していった。

ネジを締める。

カバーを戻す。

最後に、

試運転をする。

問題なく動いた。

「終わりました」

女性を呼んだ。

女性は、

きれいになった洗濯機を見た。

「まあ、きれい」

うれしそうだった。

そして、

少し心配そうに聞いた。

「まだ使えそうですか?」

「はい。今のところ問題なく動いてますよ」

女性は、

洗濯機を見た。

「よかった」

その「よかった」は、

ただ洗濯機が動くという意味だけではないような気がした。

でも、

くまは何も聞かなかった。

道具を片づける。

玄関へ運ぶ。

 

帰る準備をしていると、

女性が小さな袋を持ってきた。

「これ、帰りに食べて」

見ると、

お菓子が入っていた。

「いや、そんな。すみません」

「いいの、いいの」

女性は笑った。

「甘いもの、嫌い?」

「いや」

くまは即答した。

「大好きです」

女性が笑った。

くまも笑った。

「じゃあ、持っていって」

「ありがとうございます」

玄関で頭を下げた。

「今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」

扉が閉まった。

くまは車へ戻った。

助手席に、

もらったお菓子の袋を置いた。

運転席に座る。

エンジンをかけようとして、

手を止めた。

袋から、

一つ取り出した。

食べる。

やっぱり甘かった。

くまは少し笑った。

こういうとき、

甘党でよかったと思う。

 

お菓子を食べながら、

さっきの洗濯機を思い出した。

掃除屋になって、

たくさんの物を掃除してきた。

エアコン。

洗濯機。

浴室。

レンジフード。

くまにとっては、

仕事だった。

でも、

その家の人にとっては、

ただの「物」ではないことがある。

初めての給料で買ったもの。

子どもが生まれたときに買ったもの。

夫婦で選んだもの。

亡くなった人が使っていたもの。

長い間、

家族の暮らしを見てきたもの。

知らなければ、

ただの古い物に見える。

でも、

一つ話を聞くだけで、

まったく違って見える。

 

人も、

同じなのかもしれない。

くまは車を走らせた。

信号で停まる。

横断歩道を、

一人の男性が歩いていた。

コンビニの袋を持っている。

くまは、

その人の名前を知らない。

どこに住んでいるのかも知らない。

今日、

何があったのかも知らない。

これから、

誰のところへ帰るのかも知らない。

でも、

あの人にも、

今日という一日がある。

朝起きて、

何かを食べて、

誰かと話して、

何かを考えて、

ここを歩いている。

もしかしたら、

今日はすごくいいことがあったのかもしれない。

逆に、

誰にも言えないくらい、

つらいことがあったのかもしれない。

見ただけでは、

何も分からない。

くまは、

少し前まで、

知らない人というのは、

自分とは関係のない人だと思っていた。

でも、

掃除屋になってから、

そうとも言い切れなくなった。

昨日まで知らなかった人の家へ行く。

数時間、

同じ場所にいる。

少し話す。

その人の大切なものを知る。

コーヒーをもらう。

お菓子をもらう。

「ありがとう」

と言ってもらう。

そして、

帰る。

 

もう二度と、

会わないかもしれない。

それでも、

確かにその日、

お互いの人生が少しだけ重なっている。

信号が青になった。

くまは車を走らせた。

世界には、

自分が知らない物語が、

同時にいくつも流れている。

自分が主人公なのは、

自分の人生だけだ。

隣の車を運転している人にも、

その人が主人公の人生がある。

コンビニの店員にも。

さっき横断歩道を歩いていた人にも。

今日の女性にも。

みんな、

自分の知らないところで、

何十年という時間を生きている。

そう考えると、

知らない町が、

ほんの少し違って見えた。

 

夕方。

家へ帰った。

車から道具を降ろす。

助手席を見ると、

お菓子がまだ残っていた。

一つ持って、

家へ入った。

夜。

テレビを見ながら、

そのお菓子を食べた。

そして、

今日初めて会った女性の言葉を思い出した。

「最後に二人で買った家電なんです」

明日になれば、

もう会わないかもしれない人。

名前だって、

何年かすれば忘れてしまうかもしれない。

それでも、

その言葉は、

しばらく残るような気がした。

掃除屋という仕事は、

家をきれいにする仕事だと思っていた。

もちろん、

それで間違ってはいない。

でも、

十三年以上続けているうちに、

それだけではなくなっていた。

知らない人の暮らしに、

ほんの少しだけ触れる仕事。

知らなかった人生を、

ほんの少しだけ知る仕事。

そして、

その人たちからもらった言葉を、

少しずつ自分の中へ持ち帰る仕事。

考えてみれば、

くまという人間も、

そうやってできているのかもしれない。

父からもらったもの。

母からもらったもの。

友人からもらったもの。

仕事で出会った人からもらったもの。

もう会わなくなった人からもらったもの。

たった一度しか会わなかった人からもらったもの。

いろいろな人の言葉や記憶が、

自分の中に少しずつ残っている。

人は一人で生きているようで、

実は、

たくさんの人の欠片を持って生きているのかもしれない。

 

次の日。

朝。

くまは黒いTシャツに着替えた。

道具を車へ積む。

今日の予定を確認する。

初めて見る名前。

初めて見る住所。

また、

知らない人だった。

ナビをセットする。

車を走らせる。

知らない町へ入る。

知らない道を曲がる。

目的地へ着く。

道具を持って、

玄関へ向かった。

インターホンを押す。

中から、

「はい」

と声が聞こえた。

くまは答えた。

「おはようございます。そうじ屋くまです」

扉が開く。

その瞬間。

昨日まで知らなかった誰かの一日と、

くまの一日が、

また少しだけ、

つながった。