第二部 つながり
第十章 こだわる理由
仕事を終えて家に帰ったころ、スマホが鳴った。
近所に住む、幼馴染の先輩からだった。
「今日、飲まない?」
いつもの誘いだった。
僕は少し笑って、
「行きます」
と返した。
歩いて行ける距離に、こうして気軽に酒を飲める相手がいる。
考えてみれば、それだけでもありがたいことなのかもしれない。
先輩の家に着くと、テーブルにはすでに料理が並んでいた。
枝豆。
焼いた魚。
ちょっとした小鉢。
それから、酒に合いそうなつまみがいくつもある。
先輩は料理が好きだ。
ただ作るだけじゃない。
どうしたらもっとおいしくなるか。
どんな酒に合うか。
調味料を変えたり、焼き方を変えたり。
気になったら、とことん調べる。
「これも食べてみて」
そう言って、また一皿出してきた。
僕は笑った。
「毎回よくこんなに作るね」
先輩は別に大したことでもないような顔をしていた。
でも僕には分かる。
この人は、人に喜んでもらうのが好きなのだ。
その日の主役は料理だけではなかった。
テーブルの横には、何本ものウイスキーが並んでいた。
ボウモア。
ラフロイグ。
そして、青い箱に入ったキルホーマン。
「今日は飲み比べてみよう」
グラスに少しずつ注いでいく。
同じウイスキーなのに、香りが違う。
口に入れた瞬間の印象も違う。
煙のような香りが強いもの。
甘みを感じるもの。
しばらく口の中に香りが残るもの。
僕には細かいことまでは分からない。
それでも、こうして比べてみると違いは分かった。
「全然違うね」
僕が言うと、先輩は嬉しそうに説明を始めた。
作られた場所。
樽。
香り。
飲み方。
次から次へと話が出てくる。
本当に好きなんだな。
そう思った。
でも、話を聞いているうちに、ふと別のことを考えた。
――これ、掃除と似ているな。
エアコンなんて、どれも同じように見える。
洗濯機だってそうだ。
でも何百台、何千台と触っていると、少しずつ違いが見えてくる。
この機種は、ここに汚れが溜まりやすい。
この構造なら、ここを先に外したほうがいい。
同じ黒い汚れでも、落ち方が違う。
洗剤の濃さ。
水の当て方。
ブラシの角度。
最初のころは、そんなことまで考えていなかった。
ただ汚れを落とすことに必死だった。
でも、いつの間にか、
「もっときれいにできないかな」
と考えるようになっていた。
そして、
「どうしたら、お客さんがもっと喜んでくれるだろう」
とも考えるようになった。
先輩がまた料理を持ってきた。
今度は、いかだった。
香ばしい匂いがする。
「これ、うまいね」
そう言うと、
先輩は嬉しそうに笑った。
その顔を見て、なんとなく分かった気がした。
料理が好きだから、研究する。
酒が好きだから、研究する。
もちろん、それもある。
でも、それだけじゃない。
自分が工夫したものを誰かが食べて、
「うまい」
と言ってくれる。
選んだ酒を飲んだ人が、
「これ、いいね」
と言ってくれる。
その瞬間が嬉しいのだ。
僕も同じなのかもしれない。
掃除が終わって、
お客さんがエアコンの中をのぞき込む。
「うわ、きれいになった」
その一言で、
何時間も黙々と作業した疲れが、少し消える。
洗濯機を組み上げて、
お客さんが、
「これで安心して使えます」
と言ってくれる。
その言葉が嬉しくて、
また次の現場へ向かう。
十三年以上も掃除を続けてこられた理由。
それは、
掃除そのものが好きだからだけではないのかもしれない。
誰かが喜んでくれる。
その顔を見るのが好きだったのだ。
気がつけば、グラスの氷はだいぶ小さくなっていた。
テーブルには食べ終わった皿が並び、
ウイスキーの瓶が何本も立っている。
僕はグラスを眺めながら思った。
仕事も料理も、
最初から上手な人なんていない。
失敗して、
調べて、
試して、
また失敗して。
少しずつ自分なりのやり方を見つけていく。
そして不思議なことに、
誰かを喜ばせようと思えば思うほど、
もっと上手になりたくなる。
もっと知りたくなる。
こだわりが増えていく。
昔の僕なら、
「仕事なんだから、ちゃんとやるのは当たり前だ」
くらいに考えていたかもしれない。
でも今は少し違う。
仕事を続けていると、
効率とか、
売上とか、
件数とか、
そんな数字ばかり見てしまうことがある。
もちろん、それも大事だ。
僕だって商売をしている。
生活していかなければならない。
それでも、
仕事のいちばん根っこにあるものは、
案外もっと単純なのかもしれない。
目の前の人に、喜んでもらいたい。
それだけなのだ。
先輩は料理で。
僕は掃除で。
やっていることは全然違う。
それでも、
僕たちがこだわり続ける理由は、
案外同じなのかもしれない。
帰り道。
夜風が少し気持ちよかった。
近所だから、家まではすぐだ。
歩きながら、
僕は今日食べた料理と、
ウイスキーの香りを思い出していた。
そして、明日の仕事のことを考えた。
明日もまた、
誰かの家へ行く。
汚れたものをきれいにする。
いつもと同じ仕事だ。
だけど、
いつもと同じでいいとは思わない。
昨日より少しだけ丁寧に。
昨日より少しだけ上手に。
そして、
目の前の人が少しでも喜んでくれたら、
それでいい。
たぶん、こだわるっていうのは、
自分のためだけじゃない。
誰かに喜んでもらいたいと思ったとき、
人は自然と、こだわり始めるのだ。
そう思ったら、
明日の仕事が、
ほんの少し楽しみになった。