第三部 それでも
第七章 手を貸す距離
午後、
道具を洗っていると、
電話が鳴った。
以前、
エアコンを掃除した女性だった。
「くまさん、
ちょっとお願いがあって」
声に聞き覚えがあった。
作業中、
何度もお茶を勧めてくれた人だった。
「どうされました?」
「二階のたんすを、
下へ持ってきてもらえないかしら」
くまは、
蛇口を閉めた。
階段の形を思い出した。
途中で、
大きく曲がっていた。
「大きさは、
どのくらいですか」
「私の背より少し低いくらい」
女性は、
すぐに続けた。
「中の物は出しておくから」
くまは黙った。
軽い棚を動かすくらいなら、
作業のついでに手を貸すことはあった。
でも、
階段を使って大きなたんすを下ろすのは、
違った。
「便利屋さんにも聞いたんだけどね」
女性が言った。
「二人で来るから、
それなりにかかるって」
くまは、
濡れた手をタオルで拭いた。
「くまさんなら、
顔も分かるし」
その言葉は、
うれしかった。
知らない人を家へ入れる不安は、
仕事のたびに感じていた。
だからこそ、
頼ってもらえたときは、
なるべく応えたかった。
「お一人で来て、
少し手伝ってもらえればいいの」
くまは、
もう一度階段を思い浮かべた。
上から押す人。
下で支える自分。
途中で、
手が滑ったら。
女性が、
支えようとしたら。
「すみません」
くまは言った。
「その大きさだと、
僕一人では安全に運べません」
電話の向こうが、
静かになった。
「そう」
女性は、
短く言った。
「中を出しても?」
「はい。
重さだけじゃなくて、
階段の曲がり角もあるので」
くまは、
少しゆっくり話した。
「二人以上で、
運ぶ仕事に慣れた方へお願いしたほうがいいと思います」
「そうなのね」
そのあとの声は、
最初より遠かった。
電話が切れた。
くまは、
画面を見たまま立っていた。
もっと別の言い方があったのではないか。
見に行くだけなら、
できたのではないか。
父だったら、
どうしただろう。
そう考えて、
くまは自分の右手を見た。
去年、
重い道具を無理な姿勢で持って、
何日も腰が痛んだことがあった。
靴下を履くだけで、
息を止めた。
あのときは、
何とか現場へ出た。
でも、
もし階段で転んだら。
自分だけでは済まない。
くまは、
道具洗いを再開した。
ブラシの根元から、
灰色の水が流れた。
何度すすいでも、
気持ちはすっきりしなかった。
夕方、
母に写真を届けるため、
小さな写真店へ寄った。
父の写真を複製してもらった。
古い紙の傷も、
そのまま写っていた。
家へ着くと、
母が鉢を動かしていた。
大きな鉢だった。
くまは慌てて、
横から手を出した。
「どこへ持ってくの」
「あっち。
もう少し日の当たるほう」
持ち上げる前に、
くまは鉢の底を確かめた。
思ったより重かった。
「台車、持ってくる」
「ちょっとそこまでなのに」
「ちょっとでも、
腰やったら困るから」
母は、
何も言わずに待った。
鉢を動かし、
写真を渡した。
母は、
眼鏡をかけて父の顔を見た。
「ありがとう」
それから、
くまの顔を見た。
「何かあった?」
「別に」
言いかけて、
やめた。
くまは、
たんすの電話の話をした。
母は、
写真を持ったまま聞いていた。
「父ちゃんだったら、
行ったかな」
くまが言うと、
母はすぐには答えなかった。
「分からないわよ」
写真を、
テーブルへ置いた。
「行って、
腰を痛めて帰ってきたかもしれないし」
くまは、
思わず笑った。
母も笑った。
「そういうこと、
あったの?」
「何度も」
母は、
少しあきれた顔をした。
「人には無理するなって言うくせにね」
くまは、
父の写真を見た。
父の話を聞いてから、
何でも引き受けられる人になりたいと、
どこかで思っていた。
でも、
母の覚えている父は、
ときどき腰をさすりながら、
家へ帰ってくる人だった。
「断ったら、
嫌われたかなって」
くまが言うと、
母は湯のみを持った。
「それは、
分からない」
少し間を置いた。
「でも、
けがをさせたら、
もっとつらいでしょう」
くまはうなずいた。
それだけは、
はっきりしていた。
翌日の昼。
昨日の女性から、
短いメッセージが届いた。
専門の業者へ頼むことにした。
引き出しを抜いたら、
本体が思った以上に重かった。
無理を言ってごめんなさい。
くまは、
一度読んで、
もう一度読んだ。
安心した。
その気持ちは、
隠せなかった。
でも、
返事が来なかったとしても、
昨日の判断が間違いになるわけではない。
そう思うまでに、
少し時間がかかった。
くまは返信した。
連絡へのお礼。
安全に運んでもらえるとよいこと。
また掃除で困ったら、
声をかけてほしいこと。
それだけを書いた。
送信して、
携帯をポケットへ入れた。
午後の現場では、
洗濯機の横に棚があった。
持ってみると、
中身が入ったままだった。
くまは、
お客様に聞いた。
「先に、
上の物をよけても大丈夫ですか」
急げば、
そのまま動かせたかもしれない。
でも、
そうしなかった。
一つずつ下ろし、
置く場所を確かめた。
誰かを助けたいと思った日にも、
自分の手は、
二本しかなかった。
関連記事一覧|そうじ屋くま 目次
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はじめに
第一部 はじまり
第二部 つながり
第三部 それでも
第三部 それでも 第三章 父を知る人(9月18日 8:08公開予定)
第三部 それでも 第四章 知らない父(9月19日 8:08公開予定)
第三部 それでも 第五章 裏口の灯り(9月20日 8:08公開予定)
第三部 それでも 第六章 名前のない仕事(9月21日 8:08公開予定)
第三部 それでも 第七章 手を貸す距離(9月22日 8:08公開予定)
第三部 それでも 第八章 待つあいだ(9月23日 8:08公開予定)
第三部 それでも 第九章 写真の余白(9月24日 8:08公開予定)
第三部 それでも 第十章 明日も行く(9月25日 8:08公開予定)
第四部 となりの時間
第四部 となりの時間 第一章 二つの湯のみ(9月26日 8:08公開予定)
第四部 となりの時間 第二章 借りた椅子(9月27日 8:08公開予定)