母は、四姉妹であることを気に入っていた。


昭和40年代終わりから平成初期 長崎で育った四姉妹全員とも首都圏に住んでいたので

よく集まっていた。


特に私が小学生だった50年代は、祖母が昔住んでいた近くの目黒不動に御参りに行くので

合わせて姉妹も集まっていた。


今では考えられないゆったりした時間の流れだったであろう。


目黒は遠いので、代わりに日本橋近辺の寺社に祖母を連れて行き、デパートに寄って人形焼を買って帰ってくるのだった。


祖母は出かける時はほぼ和服だった。




母の四姉妹の下には、弟になる男三人が続いて、七人姉弟と両親である私から見る祖父母に、更に父方のお姑さんと当時お店をやっていた住み込みの店員も入れると多い時で11〜13人という話だった。



母は、私にきょうだいがいないことを、可哀想、可哀想 と言い、


結局は私をディスって話は謎のマウントを取るところに落ちるパターンでした。


笑い話でしょうか?


渦中ではそうほほえましいことではありません。


しかし、そういったことが当たり前の日常になっていました。


時代は世の中が豊かだったと言われるバブル期ですが、


自分は豊かさを感じられてはいませんでした。


ものすごい勢いで時代が変わっていくのに


反比例するように自分が無力になっていくように感じられ


ついていけなくても毎日は過ぎて行く


ついこの前まで、昭和50年代だったのに


昭和60年代に入っている


当時学校の同級生も同じことを口にしていた言葉にほっとしたりも。


祖母は一人で外に出ていることが多かった


電車に乗るのではなく、歩いている



交通費が勿体無い 

と歩くことを是とされ

自分は文明から遠ざかっているように思えていた


親に合わせなければならなかった


祖母はすっかり徘徊になっていた。