吉永小百合さんを見ると、叔母のことを思い出します。
私の母は、長崎原爆に被災しました。
長女で、当時高校生(旧制女学校)だった叔母は、
部屋の中に飛び込んできたガラスの破片が首に当たり、怪我をしたそうです。
まもなく、原爆によって県庁付近から火災が起き、
火が迫ってくる状況になったといいます。
祖父が戻ってきて、隣近所と力を合わせ、
まだ火が来ていない家の中にバケツリレーで水をかけ、
家を水浸しにしたそうです。
燃えにくくするための判断だったのでしょう。
その後、午後になって、知己の家へ避難することになりました。
長崎街道を北上して逃げたのですが、
結果として爆心地の近くを通ってしまったのだそうです。
祖母の知己を頼って諫早に身を寄せたりもしたそうです。
叔母が、まだ幼かった一番下の叔父の手を引いて歩いたことを、後年叔父から聞きました。
そして戦争が終わり、
終戦から三、四年ほど経った頃、長崎で「戦後初のミスコン」が開催されたそうです。
復興の一環だったそう。
当時、中央省庁に勤めていた(のちの)叔父がその事務に関わり、
そこで叔母を見初めて、「一緒に東京に来てほしい」とプロポーズし、叔母はそれを受けました。
ただ、叔母は当時中学生になったばかりだった末弟——
一番下の叔父を置いて行くことを案じたそうです。
「一緒に東京に連れて行くなら」
そうして、新大久保の官舎で、三人の生活が始まりました。
叔母の結婚生活は、弟を連れて始まったのでした。
叔父は大学を卒業し、大手企業に就職し、家庭にも恵まれました。
叔母は高齢になり、心臓の不全で亡くなった時は、一同本当にがっくり肩を落としました。
叔父も高齢になって心臓を患い、定年後は入退院を繰り返していましたが、叔母の後を追うかのように亡くなりました。
もしあのとき、叔母が叔父を残して東京に行っていたら、
叔父はどうなっていたかわからないと述懐していたそう、
吉永小百合似の自慢の姉は、
姿形だけではなかった
その心の美しさによって
子や孫の代までの家族を救ったのだと、私は思っています。
