都知事選などの大きな選挙にはテレビ広告を解禁したらどうだろう。
東京など票数は500万といわれる。
街頭演説やポスターで知名度を上げることは不可能ではないか。
テレビ広告はカネがかかる。
億という数字だろう。
これを出せるのはスポンサーでありパトロンである。
カネが選挙に入り込む。
これが資本社会では善なのではないか。
今回の石丸選挙を見ていてそうおもう。
街頭演説を日に10回して聴衆が10000人だとする。
2週間で14万人にしかならない。
500万人に語り掛けるなど不可能である。
すると断然現職有利ということになる。
これで、新しい政治が期待できるだろうか。
資本社会ではカネに選挙権を与えてはどうだろうか。
カネを集めることは善である、という考え方である。
今回の石丸選挙を見ていてつくづくおもう。
個人献金ならば善の献金とするのである。
そのカネで広告を出すのである。
広告で大衆に呼びかけるのである。
テレビは都知事選に沈黙している。
選挙の公平性を保つためという理由である。
裏をかえせば現職を応援していることになる。
スポンサーが付くということにはいろいろな意味合いがあるだろう。
カネは悪ばかりではない。
篤志家がこの人という想いでカネをだす。
このチャンスがあってもいいのではないか。
選挙に負ければカネはゴミになる。
選挙にそれだけのエネルギーをつぎ込む。
これからの選挙はそうあるべきではないか。
アメリカは大統領選挙でメチャクチャ大きなカネが動くようだ。
これを悪と見るかコストと見るか。
一考の余地があるだろう。
資本主義の一面として利潤だけでなく、
公徳のために消費するという道を拓いてはどうだろう。