前回の、「自分を見つめるということ」で、他人ではなく、自分の行動、考えを顧みる大切さを書きましたが、
これは、本当に難しいですねえ。
これは、日々の努力しかないのかなあと思います。結局は、私たちは与えられた人生のなかで、間違えを顧み、いろいろな経験を
しながら成長していくのですからね。
わたしが、アメリカで、大学のリサーチ研究の一環としてかかわっている育児グループでも100パーセントの完璧を求めるのではなく、70パーセントの成功率を目標にしましょうと、親御さんにお伝えしているんです。完璧な親、人間、子どもなどいないのだから、それを達成しようというのは、到底無理なことなのですから。
昨日、近くの良く行く教会で、牧師さんの話を聞いていたのですが、この教会は、いろいろごたごたがあり、牧師さんは、もうやめなくては
ならなくなったんです。
この牧師さんと、教会の間で、少しづつ溝が入っていくのを私も見て来ましたが、この少しづつのずれが大きな亀裂を発し、修復不可能になるのを私は、昨日見てしまいました。
昨日のテーマは、「愛」で、私は、今日は、この牧師さん、なかなかいいお話をしているなあと思っていた矢先に、「愛」を謳っているにも関わらず、この牧師さん、教会を批判しだしたのです。
教会は、一同騒然 ![]()
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でも、私たちもこういうことをよくしちゃいますよね。
私たちが傷ついたとき、理解されなかったとき、私たちは、相手を非難してしまいます。
もちろん、教会員の反応も、「非難」的な反応でした。これが、私たち人間の自然なコミュニケーションなんですよね。
非難された、自己防御によって非難仕返す。そしてさらなる亀裂が走ってしまう。
でもここで、「はっ」として、私も牧師さんと同じことをしている、「批判」しているだけだ、と顧みられる人は、コミュニケーション能力もアップします。
そして、牧師さんの行動を「どうして」という目線から「理解」する努力をすると、牧師さんの傷ついた感情、誰にも理解されなかった悲しさが、見えてきて、おのずと、同情の念が湧いてきます。そうすると、私たちの行動も、「批判」から違った行動へ、もっと建設的な行動へと変わっていくのです。
「理解する」ということがとっても大事なんですよね。これは、感情的な「批判」とは違い、多くの労力を私たちから必要とします。労力を費やした分、見返りも大きいですけどね。感情に惑わさられるのではなく、平穏という人生の楽しさという見返りですね。