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「小細胞がん」闘病記

父(61歳)の「小細胞肺がん:ステージⅣ」の闘病記。

前回記事から随分と経ちました、、、
2011年になってからもう4ヶ月。

3月の大震災ではあまりにも多くの命が
一瞬にして絶たれてしまいました。

同じ日本で、大変なことが起きているのに
遠い地から御祈りすることしか出来ない日々。
努めて、「普段どおりの日常を、、、」と
毎日を明るく、笑顔で過ごしております。

明日が来るのは当たり前ではない、
本当にありがたいものなのだ・・・と
折に触れてひしひしと感じます。


昨年7月に、【小細胞肺がん(ステージⅣ)】と診断された父。

1月に抗がん剤治療を終えて、
3月には初めての放射線治療を行いました。

脳に転移した腫瘍は、当初の検査では脳幹のみだったのですが
2月の検査で複数個あることが発覚。
それは脳全体に渡っていました。

抗がん剤治療で、脳幹部の腫瘍はほぼ消滅していたのですが
やはり脳内転移は避けられなかったようです。
とはいえ、本人の自覚症状は全くなく、
普通に毎日を送っております。

抗がん剤治療の副作用で、末梢神経障害が起こり、
足の裏が常に痺れているそうです。

当初の治療計画通り、抗がん剤治療終了後に放射線治療(全脳照射)を、
30グレイ/day×10日のスケジュールで行いました。

治療自体に痛みなどは全くなく、父もケロッとしていたのですが、、、
治療開始から5日目くらいから脱毛が始まり、
あっという間に頭部の毛がほとんど抜け落ちました。
放射線治療では、脳が腫れることがあるらしいのですが、
父は軽い眩暈ですみました。

放射線治療後、頭部の検査はまだしていません。
4月の始めに胸部レントゲン検査をしましたが、
肺の影は1月と変わらず(大きくなっていない)でした^^

医師曰く「3ヶ月が再発の分かれ目」らしいです。
5月にまた胸部CT検査です。
再発していないことを願うばかりです。

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1月の記事に書いた「千羽鶴」。
実はすでに出来上がっているのですが、
父に渡すタイミングがわからず、未だ渡せず仕舞いです(汗)

千羽鶴なんて渡すことなく、
これからもずーっと元気でいてくれたらいいのにな。


そういえば、このあいだ84歳の祖母と父母と私の家族で
少し遠出して伯方島の開山というところへお花見に行って来ました桜

「小細胞がん」闘病記


寒の戻りで寒かったけど、この日は小春日和でポカポカ音譜
空気が澄んでいて、ずーっと遠くの島まで見渡せました^^
桜はまだ5分咲きだったけど、とても良い思い出になりました。

展望台に上がる坂と階段。
日ごろ運動不足の私はぜーぜーあせる
父もさすがにクラクラしてましたが、
私なんかよりずっとシャキッとしてました(笑)

あー、なんか、ガンだなんて嘘みたい。

最初に告知されてから、もう9ヶ月が経つ。
月日が経つのはあっという間だなぁ、、、
1日1日を大切に。


前回、父のこと①から1ヶ月以上間が空いてしまいましたが・・・
無事に新年を迎えることが出来、すべてに感謝!!

2011年1月11日現在の状況はというと・・・

当初予定していた抗がん剤治療1クール(6ヶ月間)が、
今月で終了。。。と言いたいところだったのですが、
最後の最後になって骨髄毒性が顕著になり、
3週目の抗がん剤投与は見送りとなりました。

あと1回。
あと1回投与出来ればひとくくり、、、という気持ちはありますが、
それでも、今まで無事に治療を重ねることが出来たことは
私たちにとっては奇跡に近いことで、父を守るすべてのものに感謝すべきこと。

1月28日に、CT検査の予定なのですが、
その時点でこれからの治療の方向性が決まるそうです。

心配だった脳幹への転移ですが、
治療の甲斐あって画像では消滅してくれました!
医師曰く、
「画像で見えずとも、がん細胞は何万とあってもおかしくない」
らしく、小細胞ガンの習性や、これからのことも考慮して、
予防的にも頭部への放射線治療を勧めるとのこと。


去年の7月(半年前)には、とてつもない絶望感を味わいましたが、
運良くここまで治療を続けられ、大きかった腫瘍も小指程の大きさまで縮小しました。

- 抗がん剤治療1クール終了 -

・・・それは、嬉しくもあり、新たな不安の始まりでもあるのです。
『小細胞がん』とは、進行は早いが、抗がん剤が良く効くがん。
治療当初、医師に告げられた言葉は、
「1度目の抗がん剤は良く効くのですが、2度目はほとんど効かないことが多い」
それを聞いた時はあまりピンとこなかったのですが、
今となってはその言葉が重くのしかかります。

1クール終了後は、体力の回復をまってしばらく治療はお休みになります。
言い方を変えれば、
「今まで抗がん剤で進行を抑えていたものを野放しにする」わけです。
とにかく進行の早いがんですから、いつまた再発し、父を苦しめることになるのか・・・

そんなことを考えると、血の気がサーッと引いていく。




あぁ・・・これからどうなっていくんだろう。
とにかく一日も早く、千羽鶴を仕上げよう。
それくらいのことしか、思いを届ける手段はないのだから。

千羽鶴たちが、父の病を連れ去ってくれたら良いのに。



2010年の1月、私は母に千羽鶴を折った。
ちょうどインフルエンザが大流行している時期、突然高熱を出した母。
インフルエンザではなく、「急性胃腸炎」の診断だったはずが、
突如一転して「敗血症ショック」と「多臓器不全」に陥った。
いきなり死の淵に立たされた母は、奇跡の生還を果たした。
、、、が。
「肝内結石症」が発覚し、肝臓を半分切除する大手術を受けることに。
話すと長くなるので割愛するが、家族全員生きた心地のしない日々だった。

そんな絶望的な状況に置かれた母でも、無事生還することが出来た!
助かって欲しい、そう思いを込めた千羽鶴。
きっと願いが通じたのかも知れない。

だから今回も、父に千羽鶴を折った。
1年の内に二度も、両親に千羽鶴を折る機会などそう無い。
出来ればそんな機会なんて無い方が良いに決まっている。

父は今までに二度、命に関わる病気に見舞われている。

一度目は約20年前。急性心筋梗塞。
当時、父は41歳だった。
私は小学2年生で、あの時のことは今でもハッキリ覚えている。

あの頃、タクシー運転手だった父。
夜勤も多く、夜家に居ることが少なかった気がする。
就寝後しばらくして、家の電話が鳴った。父の会社からだった。

「心臓が苦しいって、救急車で運ばれた!すぐ行ってやって!」

職場の同僚からの急な知らせにたいそう驚いた母は、
寝ている私を叩き起こして、寝間着のまま病院へ向かった。
「パパが倒れたんやって!どうしよう、、、」
家から病院までの道のり、赤信号にひっかかる度、母は酷く苛立っていた。

すごく寒い、1月の深夜12時過ぎのことだった。

救急病院に着くなり、処置室で処置を受ける父が目に飛び込んで来た。
着ていた服もハサミで切って脱がされ、
心電図やいろんな機器を体につけた父は恐ろしい程ガタガタ震えていて、
小学2年の私には「怖い」の一言だった。

看護婦さんに「子供は近寄らないでください」とキツイ口調で言われたのを覚えている。
今思えば感染症を防ぐためだったのかな?

必死の処置のおかげで、とりあえず命はつながったが、
朝を迎えるなり救急車で大きな病院の集中治療室へ搬送された。
1週間程ICUに居たのだろうか、、、
その辺の記憶がちょっと曖昧だが、『小学生は立ち入り禁止』だった。
なので、父に手紙を書いて母に渡してもらっていた。

ICUから一般病棟へ移れたのはしばらく経ってからで、
久々に対面した父は笑顔だった。

急性心筋梗塞を起こしたことで、父の心臓の3分の1は機能しなくなった。


父が急性心筋梗塞にみまわれた原因は、少し考えただけでも色々思い当たる。
父は10代の頃から、1日に3箱以上もタバコを吸うヘビースモーカーで、
酒は飲まないが野菜はキライで肉が中心、コーヒーが大好きで日に何杯も飲んでいた。
それに加えて職業柄不規則な睡眠時間、、、

普通に考えて、不摂生の極みのような気がする。

さすがの父も、生きるか死ぬかの瀬戸際をさまよったこともあり、
それ以来パッタリとタバコはやめた。

あの時から20年、その間にも何度か血管が詰まりそうになって
カテーテルでステントを入れたりと、ずっと心臓血管外科に通い続けて来た。

生活習慣も幾分か見直し、なんとか頑張って来た父だが、、、
再度大病を患うこととなる。

続きはまた後日、、、。