その人は若き日、自分の体は丈夫なほうではないと思っていた。

家は農家、嫁に行き実家を出なくてはと考えていた。

縁談の話は他県、相手の家も農家だが長男ではなくサラリーマンをしているという。

農業はしなくて良いというので、嫁ぐ決心をしたと思う。

土地と家を与えてもらい結婚生活を始めた

本家の姑の助言を常に守り家賃は無いが、有るものと思って貯金をするようにと言われると精いっぱいの節約をして貯蓄に励んだようだ。

どこからかにわとりを手に入れて卵の確保を考えたらしいが近所から鶏の鳴き声への苦情があり手放したらしい

どちらかといえば密集地、多少無理があったのかもしれない。

周りから見ても痛々しいほどの生活への倹しい努力

 

私がそんな彼女を知ったのは

子供が小学校の頃

とにかく痩せていた嫁いで来た時はコロコロしていたらしい。

 

近所の子供たちと花火をすることになり

彼女に声をかけても

子供を連れて来ることは一度もなかったがその時は私も気に止めることもなくいた。

知らない地に来ての

気苦労やら何やらでかわからないが

肝臓を悪くをし医者に行っていた。メニュール病にもなっていたらしいが、昼横になっていても外食をしないご主人のために夕方は起きて食事の支度をしていたようだ。後に

手術をし退院したその日もご主人に食事を作ったとのこと

本家の行事、親戚づきあいは苦であったらしいが彼女なりに努力していた

子供が大きくなってきたころからかよく話をするようになってきて解ったが、

その人、つまり彼女は意志も強く

義理堅い性格

彼女はご主人のお母さんのことは常に褒め一度も悪く言うことはなかった。

ご主人のことは

あまり話さなかったように思う。ご主人は

仕事で朝早く、夜遅い人。働き者で定年後も働いていてお会いすることは多くはなかった。

私は借金を返したり

いろいろあり忙しくしていたが彼女には何でも話せるようになってきていて

お互いおかずを作ると届けたり、洋服の話などしたりで気心もしれて友達意識も芽生えていた

その彼女が亡くなってしまった。

40年のお付き合い 葬儀の終わった夜、私の夢に彼女は出てきてありがとうと言い、私の後ろをスーと去って行った。

 

彼女は家に嫁いだ嫁として愚痴も言わず、努力したことが亡くなってからよく解った。

一周忌の時は皆さんきちんとした服装で緊張感あふれていたが

新盆に呼ばれもう一人の友達と行った時は驚くことばかり、顔には出さず親戚付き合いをしてきたその親戚は、ソファに寄りかかりお経を聞く人、座布団を譲り合い笑っている人,だれ一人涙を流す人もなく、息子一人はお経が始まっても食事のテーブルの椅子に座りスマホをしていて呼ばれて座った。ご主人は上はポロシャツ、下はバミューダパンツ息子達も同じ、これから海に行くような姿、全員が素足で私たちの前に座りお経を聞きお焼香をしていた。友達はいったいいつ着替えをするのかと思っていたというが、新盆だからいいのかしらないがとにかく彼女をしのんでいる雰囲気を私が感じ取ることはなかった。

遺体が病院から家に帰ってくるとき私は夫と行ったが、いつもご飯を食べに来ていた嫁たちは赤ちゃんを抱えているからなのか誰一人迎えには現れなかった。

大きな手術をした後の彼女をいたわることもなく三男の嫁においては間もなく生まれる二人目のお産の後はこの家で過ごしたいとお願いしていたらしく、彼女はみんな遠くへ行ってほしいと悲鳴を上げていたことも後で知った。葬儀の後、遺骨は墓ができていないのに家においてあげることなくとにかく預かってほしいとお寺に頼み置いてあると聞きそんなものなのかと悲しかった。家のために頑張った彼女、亡くなって早5年想わない日はない私、一時は家の前も通れなかった この現実を今も信じられずお墓にも行けない。

彼女自身が決めた結婚、私が決めた結婚。でも

相手を想う以上に自分が想われたほうが幸せではないかなあと今は感じている。

彼女も私も夫となった人物の考え方に従い努力してついていくことを原点としていたと思う。

 

友達は一人か二人でいいと考えてきた私

その人をしのぶと涙が頬を伝う

 

花が大好きだったその人に

 

 さくらが 咲いたよ

さるすべりの 花が咲いたよ。

 

     私は心の中で語りかける・・・。