決めつけと思い込み 推測と憶測 違いは? | PTAはPTA

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私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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比較的よく使いますが、改めて調べてみると
「決めつけ」は、一定の事実をもとに自分で方向性を選ぶこと
「思い込み」は、事実かどうか確かめずに、自分が「そうだ」と強く信じること

「推測」は、一定の情報や知識に基づいて、推し量って考えること
「憶測」は、確固たる証拠や根拠がない状態で見当をつけること

大まかに言えば、二つの違いは根拠があるかないか
とても大きな違いですが、ちゃんと使い分けているか?と問われたら
正直、自信がありません。

 

私もPTAや自治会などの地域活動については、自分の経験から語っていいることが多いですが、それは本当にごく限られた範囲内でのこと、加えてそこに私の価値観が加わっていますので、それを以ってPTAや地域活動の全体像に当てはまるとは到底思えません。


21世紀の現代社会、誰もが自分の考えや意見をネット上で発信・表明できる時代になっていると思います

子どもから大人まで誰もが、自分が社会の一人であるということを自覚でき、自分らしさを自分らしく発信するが増えていく、誰もが表現者になれると思っていました。

しかし、現実を観てみると、ネット上でもリアルでも表現者ではなく批評家で溢れていて、X(ツイッター)に至っては、表現する場というより批評する場として機能しているんじゃないかとさえ思えます。

以前知り合いのアーチストさんが、マーケティングはフリマやクリエーターズマーケットなどでバイヤーと直に触れあえるので十分可能だからと、展覧会や公募展などに参加する若いアーチストが年々減少していて、個展さえも敬遠する傾向にあるとのこと。
その理由の根底には自身の作品を評価・批評されることを避けたいからだそう。
表現者は批評されてナンボ、それで成長していくものなのに・・・これが時代なのか?と嘆かれていました。

表現者というと、音楽や写真、映像や美術、工芸などのアーチストのほかにも文学、言葉や文字で表現する人達が頭に浮かびますがそう言う人たちだけでなく、自分の意思表示して行動している人は、みんな表現者、極端に言えば誰もが表現者だと思うんです


そして表現するツールは様々でも共通していることがあって、それは「自分の手を動かしている」こと。自分の世界や意思を表現するために、誰かに何かを伝えるために日々、言葉だけではなく主体的に自分がき、努力しているということ。


そういう人たちからは「させる」というような使役の言葉は出てきません。

使役の言葉は人を使って何かをさせる働かせるこに他なりませんから

確かに客観的に、そして相手のことを思ってのコメントなど批評することはとても大切だと思う反面目にするものや自身が興味あるコト対して意見するなどは、表現することに比べればやはり簡単だと思います。

 

自分では経験したことないことでもあれこれイチャモンをつけ、「もっとこうしたほうがいいと思う」「それは違う」「だからダメなんだなどの発言も目にしますが、あれは自分があたかも上の立場の人間だと言いたいのか、実感したいのか、人の性を感じてしまいます

こうした批評ばかりの現代に、今を生きる人たちは、自分が手を動かすよりも安全地帯から石を投げる方が好きな人が多いと警鐘を鳴らす人もいらっしゃいます。

 

ちょっと前には一億総評論家時代なんて言われていましたしね。

 

また2チャンネルのひろゆきは「批判コメントを書く人は、全体の10%未満。90%以上の人は、ただ見ているだけ言い換えれば一部の人がたくさん時間をかけて書き込んでいるだけ」と仰っていて、この割合は20年以上変わっていないそうです。

 

ネット上でもリアルでも表現者よりも批評家の方が圧倒的に多く感じるのは、そういうことなのでしょうか?

IT技術の進歩でとても便利になったのは紛れもない事実ですが、便利になりすぎて危惧する面も多々あります。

 

検索エンジンもそうですが、特にSNSのタイムラインはユーザー自身が興味のある情報やフォローしたユーザーの情報が主に流れてくる、自分の嗜好が反映されたかなり閉鎖的な情報ばかりを目にすることになり、世の中の興味がそこにあるという錯覚をしてしまいがちになります。

 

また、世界広くに開かれているとはいえ、自分と違う価値観や考えの人をブロックすることも可能なため、同じ価値観や共感できる人とばかりでやり取りすることが増え、結果相互監視をしてしまうという忌み嫌ってきた閉鎖的なムラ社会を形成する可能性が極めて高いという点です。

 

自分の意見を自由に発信し、共感を得られることで同調圧力に屈しないようになれたと勘違いしがちですが、実際には多数派の手法を採り入れ、自分と同様の価値観の人ばかり集まっている多数派の同調圧力に流されてその流れに乗り、孤立する心配のなくなった自分が今度は同調圧力を発生させる側になって、その中で異なる価値観を意見をする少数派人を攻撃しているという構図が生まれてしまっていて、それに気づかない。

今、自分の持っているその意見や考え

 

決めつけ思い込み推測憶測

 

どれかに当てはまっていませんか?

 

 

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