いつも同じ顔触れ  ネットもリアルもムラ社会 | PTAはPTA

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私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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久しぶりにネット上で「PTA」を検索してみたら、ローカル局含めマスメディア(TV局や新聞社、出版社)のニュースや特集、出版本が以前よりもずいぶん増えて、多くの人が関心を寄せるようになったのかと思いながら記事を拝読してみると、発信社は違いますが、ニュースソースとなる現場も執筆者や専門家と評される人も10年以上前とあまり変化のない同じような顔ぶれということに、まだSNSが普及していない頃、ネット上での様々な掲示板でPTAが話題に上がると必ずと言っていいほど見かけて持論を展開されていた人の名前を今も拝見することにある意味衝撃を受けました。

中には他人事だったのが、お子さんが入学されて、あるいは役員や委員の依頼が来て、または運営側を担って、初めてジブンゴトになり、悩み、考え、行動に移された方の発信も見受けられます。ジブンゴトとして捉えられ、行動に移された人は素晴らしいと思うし、そういう人にとって過去に取り組まれた事例はとても参考になるかと思います。

経験してきた者としては、どんな事例もあくまで参考、時期も、地域の特性も、仮に同じ地域であっても当事者は違うし、仮に同じ学校であっても当事者は毎年入れ替わるので、そのまま他の事例を鵜呑みにして当てはめるのではなく、該当者の皆さんでよく話し合ったうえで行動に移されるといいなあって思います。

会社に入社した頃、すでに社内に自主研究グループやまちづくり系の地域貢献グループ、あるいはプロボノに近い社会貢献活動グループなどが立ち上がっていて、参加をしてみると「何をしてもいつも同じ顔ぶれ」なことが、とても気になっていました。

 意識をもって取り組む人たちなので、とても熱心ではありましたが、グループ側にはそんな意図はなくても傍から見れば「一見さんお断り」「身内盛り上がり」的な雰囲気が醸し出されているように映ってしまい、参加へのハードルが高くなっていた気もします。
 これはきっと誰しも、趣味のサークルなどでも既存のグループや団体に加わるとき、似たような感覚を持たれたのではないでしょうか?

何回か参加してみると、いつも同じ顔ぶれの中でも大きく2つのタイプがあるように感じました。


一つは学ぶだけでなく、結果に繋げるための実践、行動を起こす人たちで本当に「意識が高い人」、もう一つはセミナーやイベントなど学びの場には参加するけれど、それを実際の現場で実践したり行動には移すことはしない、地味な地域貢献活動にはあまり参加しない人たち、承認欲求が強い、いわゆる「意識高い系の人」。

会社(グループ)全体で多いのは、学びの場に参加することはほとんどないけど、例えば社会貢献的なCSR活動(任意)のような催しへの呼びかけには、まあまあの割合で参加される人たち。

 地域活動やPTAなどに参加しても同じような印象で、研修などの学びの場に参加するのはいつも同じ顔ぶれ、その中で意識の高い人は自ら学び、それを実践に移され、他の人の目をあまり気にされない、一方、意識高い系の人は、学びの場には参加するも地味な・地道な作業にはほぼ参加されない。目立つ・目立たないと他人の目を比較的気にする、個人のメリット・デメリットに重きを置かれている人たちかなと私には映りました。

 そしてこちらも同じように圧倒的に多いのは、学びの場には参加されないけれど、地域清掃や学校の環境整備、交通安全系など募集をすれば、まあまあの割合で参加される人たち、全ての人に聞いたわけではありませんが、自ら積極的に、自発的な提案はされませんが、都合がつけば参加する、聞けば意見を言ってくださる、そんな人たちが圧倒的に多かった印象です。
 自治会や町内会、PTAという団体やしくみがあってもなくてもどちらでもいい(どちらもいい)、そんな風に捉えていらっしゃるんだろうと話をさせていただいて感じました。 
 そんな人たちは可視化できないし、可視化すること自体おかしいかも?と最近思います。

 特にPTAでは自分のお子さんに直接関わる行事にはかなり高い確率で参加されていました。逆に言えば、自分のお子さんとは直接関係ない、違う学年のことや違う通学路の安全性などにはあまり関心を示されないことも行事や活動の参加状況、学級の懇談会や地区別の懇談会での意見、あるいは意識アンケートなどの意見や要望を通じて分かってきました。

運営側になって大切だと感じたことはフィードバック、そしてもっと大切なのは会員の皆さんとの意図を持った対話です。それぞれにご意見や要望があって、そう考える背景と理由がそれぞれあってそれを知ることができるからです。

多様性の時代と言われる現代は、唯一無二の正解はなく、複雑で未来も読めない社会。
だからこそ、対話をすることで違う価値観に出会える。一つの意見が新しい問いを生み、新しい問いが新しい視点や解釈を生む、「対話なくして変革なし」「対話なくして前進はない」と言われるのは自分と違う価値観や意見に出会い、話し合わければ何も変わらないという意味に受け取れます。

 でも価値観の違う者同士が対話する・話し合うって口で言うほど簡単ではなく、機会を作っても時間がかかる、目に見える成果がすぐに表れるわけでもない。また必ずしも自分の意見が反映されるわけでもないし、本当にどっちでもいいと思っている人も多いので、速い決定を望むなら話し合いよりもトップダウンや強いリーダーの決断が選択されます。

 

 残念ながら人が行う「話し合い」のほとんどが「最後通告」だという指摘もあります。
 いかにして自分の意見を押し通すかということしか考えていなくてさらに困ったことに最後通告型のの多くは、自分が最後通告をしているという自覚がないため、話を聞けば聞くほど「聞いてない」と思ってしまう、それは自分が望んでいる回答を答えなかったという意味なのだそうです

 対話を自分の正義を主張し続けることだと勘違いしてみえる人が多いのはそういうことか、だから実際のリアル現場での多くもネット(特にSNSやX(ツイッター))でのサークルやコミュニティも、開いてみると集まって発言するのは「いつも同じ顔触れ」になってしまうのか

本当に意識の高い人たちは他の人の言動を気にされないのでそうでもないですが、意識高い系の人たちは、同じ価値観の仲間だけのムラ社会、監視社会が形成されていて、自分たちとは違う価値観を受け入れない、または否定・拒絶して追い出す(村八分)だけでなく、攻撃して追い詰めてしまっていたりというのがとても目につきます。

また、異なる意見を自分に都合のいいように解釈したり、一部だけを切り取って、悪のようにみんなで攻めたりと、目には目を敵な人も多く、最近はバーチャルでの繋がりの方がリアルよりもムラ社会の様相が色濃く表れているように思えます。

自分は正しいと自分に都合のいいように解釈したいというのは誰にでもあります。
「あなたの判断は正しい」と他の人から評価してもらえるまで色々な人に相談されるさまをリアルで見たこともあります。

 PTA関連で最近気になるのは、本当の目的を忘れて、会員より非会員が、ウチよりソト、上位だ下位だ、などと比較して優劣をつける発言や仕草がとても目立つことです。
 私にはそれを口にしている本人が一番意識しているけど、そんな自分を認めたくないように映ります。
 第三者から見れば全く同じ行為でも自分の主張からなる行為は正義、異なる主張の行為は悪という仕草も本当に多くて、多様性や自由とはどんどん離れていくように思えます。

それでも話し合いの場を設けて丁寧に進めているところはゆっくりですが、確実に時代に即した変化をしているように思います。時間がかかった分、出した結論の納得度も高いと経験上実感しました。

「和をもって尊しとなす」で有名な十七条の憲法も「仲良くするのは尊いことだ」との解釈が蔓延していて、日本人は事なかれ主義と日本人自ら揶揄する人も多いですが、本当は「話し合い・議論をすることが大切」で「争いはするな」であり、大事なことは一人で決めず、みんなで議論して決めることと結んでいます。

意識高い系にならないように、大事なことは一人で決めず、みんなで議論して決めることを心掛けたいと思います。

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