世の中の子育て中のお母さん、忙しい中での子供の病院通い、本当に大変ですよね!

最近はお父さんもやってるか。


なんともいえない疲れがドッときますよね不安


アラフィフ母ちゃんも6月だけでも、予防接種やら歯のメンテナンス、アレルギー治療なんかで、子供の付き添いで6回も病院へ行ったよ。

子供達は高校生と小学校高学年だから、赤ちゃん時代よりは、楽になったけれど、それでも疲れるよ。


こっちも疲れているのに、病院へ行くと『まだ?まだ?』と待てなかったり、病院から帰ると『早くご飯作って』なんて言う子供達。


『あなたのために、連れて行ってあげてるんでしょちょっと不満気づき』とイラっとしちゃう母ちゃんだよ。




でもふと、自分も子供の時の事を思い出したんだよね。


私も病院へ連れて行ってくれた母に、一度も感謝した事は無かったな。

私の子供と同じく、きっと待ち合い室で騒いだりわがまま言ったりしていたんだろうな。





アラフィフ母ちゃんの母ちゃんは、80過ぎても元気に明るく、父と暮らしている。


母ちゃんの母ちゃんは、三人の子供を頼る人もなく、精一杯育ててくれた。

私の父は優しかったとはいえ、昭和のサラリーマン。土曜日もなくずっと仕事。夜は飲み会。家事や育児なんか男がする時代では無かったしね。




今から50年近く前だから、車がどこの家にもある時代ではなかった。

我が家に車はあったが、女性で免許を持っている人も少ない時代だったから、母はどこへでも自転車で、子供を乗せてビュンビュン走ってくれた。


私が幼稚園頃に病気になったりしたら、私を自転車の後ろ席に乗せて、年の近い弟はおぶって、まだ低学年の姉を留守番させて、病院まで飛ばしてくれたんだよね。

電動自転車なんか無い時代に。


病院に行っても今みたいに、スマホもiPadも無い時代。ずっと私や弟が飽きないように、声をかけたり、本を読んだりしてくれたんだろうな。

ペットボトルも、お水のサーバも無い時代。コンビニも当然ない。

子供達が喉が渇いて騒いだらどうしていたんだろう?


体が丈夫がとりえの私でも、小児科、耳鼻科、眼科、皮膚科、整形外科と、数えきれない程、母の自転車に乗せられて、連れて行ってもらった。

自転車の後ろには、四年生くらいまで乗っていたかな。


高校生くらいからは、もう母の付き添いは卒業し、病院に母と行く事はなくなった。





私は24歳で長男を産んだ。

里帰り出産で夫が立ち会い出産をできないので、最初から立ち会い出産を行っていない産婦人科を選んだ。


大きな日赤病院で、常に分娩室には多くの妊婦さんがいた。


初めての出産は、難産で破水してから30時間経っても、なかなか生まれてこなかった。

カーテン越しに、違う妊婦さんが次々と赤ちゃん

を産み、産声が次々と私の耳に飛び込んできた。


私は体力がどんどん低下していったが、それでも激痛と闘うしかない。意識が朦朧としていた時に


『大丈夫だよ』という声と共に、いつもの明るいニコニコと笑っている母の笑顔が見えた。

温かい手が私の腰をさすってくれた瞬間、痛みがスーッと楽になった。


本来は分娩室に家族を入れてはいけない病院だったが、分娩室が私だけになっていた隙に、あまりの難産で不安だろうと、助産師さんが母を呼んでくれたのだ。




あの時に感じた安心感は一生忘れられない。

子供の時から、体調が悪い時、辛い時、苦しい時に、必ず一緒にいてくれた母の温もりほど、心強くなれるものはないのだ。




父と同様、母にもきちんと感謝の気持ちを伝えずに、アラフィフまできてしまった。

母はまだ考えもしっかりしていて、いつも私達子供や、孫達に優しさをくれる太陽みたいな存在だ。

でも、いつどうなるか分からない年齢なのだ。


近いうちに、きちんと感謝を伝えたいと最近感じるようになった。




そして母がしてくれたように、子供達が体調を崩した時には、近くにいてあげるのが私の大事な大事な役目だと感じている。




やっぱり昭和の母ちゃんは
強いなー
でも、その母ちゃんから
産まれたんだから
私も同じように強くなれるはず

母の笑顔を思い浮かべながら、
文句をばかり言わず頑張らないとないねっ
と反省したアラフィフ母ちゃんでした。

良かったら、私の父の話も読んでみて下さいね。







アラフィフ父ちゃん、名古屋への出張もあり、ういろうも買ってきてくれた。


私は独身の時以来。

大きな塊のういろうしか無かったよね、昔は。


子供達は、はじめましてのういろう。

相当気に入って食べていたね。


たくさん父ちゃんを褒めた母ちゃんでした。

そうやって、一歩ずつ父親らしくなっておくれ。