本日、10月15日に発売された「鉄道ダイヤ情報11月号」に東急8500形の特集が組まれていますが、ボリュームたっぷりで、この車両のファンにはたまらない内容です!(私は紙の劣化の心配ない電子書籍で買いました)

 

 そこにスーパーベルズの野月さんとエアトレインの佐藤さんの対談があって、この車両に興味を持つようになったいきさつが語られていますが、その内容からお二方が初めて目の当たりにした時期は1980年代終盤~1990年代のようですね。私はそれ以前の6両編成→10両編成に向けての大量増備の時代に通学の足として利用してきたので、ちょっぴり優越感に浸っています(笑~それでも渋谷発が二子玉川園止まりの頃や玉電が存在していた時代を目の当たりにしている方にはかないませんが)。ここでは、私が記憶している1982年~1983年頃の「新玉川線」「つきみ野行き」「快速長津田行き」の時代を振り返り、東急8500形とともに活躍した営団8000形も取り挙げたいと思います。

 

 今でこそ東急8500形は昭和生まれの人気者となっていますが、当時は東急8500形は28編成~30編成在籍していたのに対し、乗り入れ相手の営団8000形は9編成で、そのうち昼間時に稼働する営団8000形は1~2運用だけのレア物だったので(東急8500形は昼間時15運用くらい)、ファンの間では「営団車」と呼ばれて人気がありました。当時は電車通学をしていたのは私を含めてクラスで1~2人くらいで、鉄道が好きな人から部活の朝練のときに「今日は営団車だった?」と聞かれたりしていました。(ちなみに、私が朝練がない日は毎日同じ時刻の電車に乗っていてそれは東急車でしたが、ファンの間では朝ラッシュ前の早朝の時間帯に営団車が比較的多いことは知られていました)

 

 当時も東急8500は今と同様に爆音を立てながら走っていましたが、おかげで新玉川線(当時の渋谷~二子玉川園の路線名)は東京で1番早い「地下鉄」という印象を持たせたものです(当時の地下線内の最高速度は75km/h、今は90km/h)。それに加えて当時の営団8000も、VVVFに換装された今と違って負けず劣らず爆音を立てていました。VVVF換装前は電機子チョッパで、10年くらい前までJR中央線で活躍していた201系と同様、加速減速前の「ツーン」という音はもちろん、それ以上に目一杯加速した後のノッチオフ時の大きな「カキン」という音で衝撃がもろに来て「動きが機敏な電車」という印象でした。しかしそれ以上に印象が強かったのは内装で、まだ新製ホヤホヤの当時は床以外の化粧板の部分が真っ白で、ファンでなくても「明るくてきれいな電車」と評判でした。(10年近く経つとさすがに色褪せてきましたが)それに加えて、当時の営団車両の特徴だった小型のドア窓に、突然「バーン」と音を立てて開く「爆弾ドア」だったので、この「営団車」は、東急車とは違った形の爆音で楽しめた車両でした。(「爆弾ドア」は今も一部の編成で残っているが、当時と比べると音が幾分柔らかくなっている)

 

 このように、営団8000形は「人気者」として扱われていましたが、東急車の方は6両編成→8両→10両となっていく過程で、オールステンレスならではの「全身ピカピカ」の車両が編成の中間に組み込まれたのが印象的で、私もいつも乗っていた車両から移って乗りに行ったものでした。化粧板の色やドアのステンレスは従来通りでしたが、床は透明なコーティングがされていてピカピカ感満載でした。のちに10両全車がピカピカの車両が1983年に3編成新製され(うち1編成は2019年9月頃に運用離脱)、学校から家に一旦帰った後、この折り返し運用にわざわざ乗りに行っていました。

 

 当時のダイヤは今と違ってシンプルでのんびりとしたもので、昼間時の渋谷~長津田は1時間に各停6本快速2本の合計8本(現在は急行・準急を含めて合計で14本、二子玉川~長津田はさらに大井町線からの急行が2本加わって16本)、長津田~つきみ野(1984年4月に中央林間に延伸)に至っては快速なしで各停の4本のみで(現在は急行・準急を含めて合計14本)、現在の本数の半数以下でした。急行(快速も含めて長津田止まり)は設定されたばかりで、朝ラッシュ・夕ラッシュそれぞれ3往復の計6往復のみでした。当時は地下線内で急行運転するのは珍しく、今では当たり前となった桜新町での急行通過待ちは名物のようでした。

 

 沿線風景、特に長津田~つきみ野・中央林間は今と比べてのんびりしていて、長津田駅で出くわす横浜線の運転本数は昼間時1時間に4~5本(車両は103系の緑・青のつぎはぎの7両編成)、そして11月にグランベリーパークがオープンして大発展を遂げる南町田駅(10月1日に南町田グランベリーパーク駅に改称)は閑散としていて、今のグランベリーパークの敷地となっている土地は草野球のグラウンドでした。当時の終点だったつきみ野駅は、まだ運転本数が少なかったせいか、今の上りホームだけを使った単式1面の駅で、今も駅前はのんびりした感じが残っています。(駅前のロータリーから出る町田バスセンターゆきのバスは平日3往復、土休日2往復のみ!)そして今の終点の中央林間駅は小田急江ノ島線のみの駅で、急行が通過するオーソドックスな中間駅といった感じでした。桜新町が自宅の最寄り駅だった当時からすると(今の自宅から田園都市線内で最も近い駅はつきみ野)長津田より先は土地勘がないこともあって「最果て」みたいに感じたものでした。

 

 このように、気づいたままに当時の情景を振り返りましたが、もう1つ想い出したのは、あの時都会やニュータウンばかり走っていた東急8500がどこかの田んぼの中を走っている夢を見たことで、それが2003年以降に実現するなんて思いもよりませんでした。(半蔵門線の水天宮前~押上の建設が決まったのは1993年頃)そして勿体なかったのは、当時フィルムカメラで撮った東急車や営団車、横浜線の車両の大量の写真を捨ててしまったことです。(悔しい!)もしあのときにデジカメがあったら、と何度も思ったりしています~。長くなりましたが、30年以上前の情景を少しでも共有していただけたらうれしいです!

 

写真左:南町田グランベリーパーク~南町田を走る東京メトロ8000系

写真右:姫宮~東武動物公園を走る東急8500系