だらだら続けてすみません。
道の駅近くまで戻ってきました。
今度は西側の町並みを歩いてみましょう。
昔懐かしいボンカレーのホーロー看板。
こちらは「田村家住宅」
宝永8年(1711年)に建てられた、この通りで二番目に古い住宅だそうです。
この家にはうだつがありません。
それは古いからだそうです。
うだつはこれより後年になって、火災が頻発したことによって設けられるようになったのだとか。
こちらは「森家住宅」
森家は16世紀の後半から脇町に居住していたという歴史ある家柄で、初代郵便局長も勤めたという名家。
建物は明治時代に建て替えられました。
立派なうだつが上げられています。
一番古い家はこちら。
「国見家住宅」です。
宝永4年(1707年)に建てられました。
写真には写っていませんが、この家にはうだつが上がっていました。
もともとはなかったのですが、寛政10年(1798年)に増築されたのだそうです。
その他にも明治~大正期にかけて活躍した将棋の十二世名人 小野五平の生家も。
王将で有名な坂田三吉や関根金次郎とほぼ同世代の方ですね。
ここは旅籠だったそうです。
少年時代に泊り客の指す将棋を見て覚えたのだとか。
その他にも立派なうだつを上げた家がたくさんありました。
中にはこんなところも。
ポタリングツアーのようなこともやっているみたいですね。
伝統工芸体験館の前にあった公衆電話。
電話が輸入された当時の電話ボックスを再現したものらしいですね。
「自働電話機」というのは当時のアメリカでの呼び名「Automatic Telephone」の直訳だそうです。
「自動」じゃなくて「自働」なんですねえ。
以前は緑電話が設置されていたようですが、今は使う人もいないのでしょう。
レトロな手回し電話の模型が取り付けられていました。
各家の軒先に吊るされていた風鈴。
短冊には地元小学校の児童達が書いた川柳が書かれています。
こういったところも地域ぐるみの町作りなのでしょうね。
さて、町並みを堪能した後は吉野川を見ていきましょう。
道路の向こうに堤防があり、石段も設けられているようです。
立派な堤防です。
さすがは日本三大暴れ川、四国三郎の異名を持つだけのことはありますね。
石段を上がると、そこには渡し船跡の碑が。
河川敷は堤防の外側よりもかなり低くなっているみたい。
それだけえぐられたってことなんでしょうか。