こちらが奠供山(てんぐやま)への入り口です。



登山というのは少し大げさな気もしますが、傾斜のきついところもあり、足の悪い僕にはちょっとつらかったですね。

山頂にはこんな碑が。



これは望海楼遺址碑。
江戸後期、紀州藩の儒学者仁井田好古が紀州の史跡を顕彰するために作成した碑の一つ。
 

「望海楼」というのは天平神護元年(765年)に称徳天皇が和歌浦を行幸した際、ここに造営された楼閣風の建物だそうです。

ややこしいのは同じ名前の旅館が、奠供山の麓にもかつてあったということ。
明治の末期にはここの主人が客寄せのために、奠供山に登るエレベーターまで作ってしまいました。


ニュース和歌山のHPよりお借りしました

かの夏目漱石もこの宿に宿泊し、エレベーターにも乗ったことがあるらしいですよ。
小説「行人」の中でも「所にも似ず無風流な装置」と書いています。
確かにこんな物が目の前にあると、気になって景観どころではありませんね。

実際、歴代天皇が行幸しその景観を愛でた奠供山にこのようなものを建造したことについては批判が大きく、結局エレベーターは第一次世界対戦時に鉄の価格が高騰したことをきっかけに、6年後には取り壊されてしまいました。


また望海楼も大正8年には閉館し、新和歌浦へと移転したということです。

さて肝心の景観はというと。



おお、素晴らしいじゃありませんか。
和歌の浦の向こうに和歌山湾が一望できます。



片男波浜を境に海の様子が変わっていることがよくわかりますね。
 

内海である和歌の浦はとても穏やか、水面に空が写りこんでいます。
これで天気がよければなあ。
奥に見えている斜張橋は和歌山マリーナシティですね。

ちなみに片男波(かたおなみ)という名前は、これも前の記事でご紹介した山部赤人の短歌、

若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

の「潟を無み」が語源になっているのだそうです。

こちらの写真は頂上から一段下がった通路から撮ったもの。



こちらは東側に視界が開けているので、不老橋もきれいに見えました。



ポタリングしているお兄さんの姿もばっちりです。

さらに市街地側に目をやると、紀三井寺も。



片男波浜越しに見る和歌山湾。



町の様子は違えども、万葉人や夏目漱石もこの景色を見たのでしょうね。
※実際には万葉の時代とは地形そのものが変わってしまっているようですが…

奠供山を下り、大鳥居前の参道を駐車場とは反対側へ向かいました。
するとここにも歌碑が。



これも万葉歌碑のようですね。

玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため

作者は赤人とともに聖武天皇の行幸に随行した藤原卿(ふじわらのまえつきみ)。
藤原不比等の息子の一人なのだそうです。

こちらは現代歌人の歌碑。



奠供山の    尾根うち越ゆる    風冴えて    神います社は    冬のひだまり

作者は中村具嗣(1906~1985)という方。


和歌山の出身だそうですが、この方の短歌と先の藤原卿のものとを比べて見ても、どちらが新しいのか僕にはわかりませんでした。


この二つには1300年近い時間の差があるのに、それを全く感じさせません。
こういうところが和歌の魅力なのかもしれませんね、知らんけど。