日本三大ピッケル製造の一翼を担った、秋田の『モリヤ製作所』を、
われわれ山仲間は制作者の苗字『森谷』姓を漢字、そのままを使い、
長年『森谷製作所』としてきていました。
しかし2021年2月21日、初代一郎氏の令孫であられる森谷 岳寿氏から、
創業当初から『モリヤ製作所』であることをご教示頂き、
またお送り頂いた昭和28年当時の写真には正しく、
『モリヤ製作所』の看板が掲げられておりました。
長年の誤りを、ここに訂正させて頂き、陳謝する次第です。
以下、「森谷」と明記していた部分を、全て「モリヤ」に訂正させて頂きます。
名工、『秋田・モリヤ』のピッケル。
『仙台・山内(やまのうち)』、『札幌・門田(かどた)』と共に、
日本を代表する、つまり日本三大ピッケルの一つ。
昭和27年(1952)、秋田の学生・吉川信市氏が、良質で安価なピッケルをと、
市内の鍛冶屋を訪ね歩き、初めの2軒にはあっさり断られましたが、
3軒目に訪ねた「モリヤ製作所」で、ピッケル製造の承諾を得ました。
注:昭和27年が“通説”になっていましたが、岳寿氏によると、
昭和26年12月10日がモリヤピッケルの記念すべき初納付の日、との由。
吉川氏は森谷一郎氏に国内外のピッケルの現物、写真、採寸図等を提示され、
それを参考に試作を重ね、打ち上げ、12月10日に吉川氏に納付したということは、
その数か月前に吉川氏が依頼したということでしょう。
吉川氏からの依頼を受けピッケルを造り始めたのは森谷一郎氏、48 歳の時。
長男昭一氏も共に働いていて、作業はお二人で分担してピッケルを造り始めました。
(楕円の銘の中の「C 2336」のCは炭素鋼、2336は製造番号を表す)
注:岳寿氏により、製造番号から判断して、昭和35年頃製造の物と判明しました。
『秋田:モリヤ』のピッケルは昭和31年(1956)マナスル遠征をはじめ、
昭和35年(1960)南極越冬隊、その他の遠征に使用されました。
マナスル遠征隊の隊長・槇 有恒氏からは、
「ピッケルに故障はなかった。おかげでマナスルを征服し、
山頂にあなたの造ったピッケルを立てた」と感謝の手紙が送られてきたり、
南極越冬隊・西堀榮三郎隊長は帰国後、秋田に森谷氏を訪ね、
ピッケルの礼を言いに来たほどでした。
一郎氏は70歳過ぎにピッケル造りから引退しましたが、
昭和38年(1963)、秋田市から文化功労者の表彰を受けました。
尚、首都圏では北千住の登山用具店・駒草山荘などが販売を行いました。
(上記文章は、主にHP「小さな山道具館」から引用させて頂きました)
ケラ首、2.5cm
木目が綺麗です。
はい、亜麻仁油を塗っています。
フィンガー、16cm・3点留め。
ブレードは銀杏形。
そしてほぼ、フラット。
ヘッドは薄く感じます。
ハーネス、シュピッツェ ともに6cm。
ハーネスは普通マイナス・ネジで留められていますが、
その打ち跡が見えません。
重 量:875g
全 長:83cm
ヘッド:30cm
ケラ首:2.5cm
フィンガー:16cm・3点留め
ブレード:6cm・銀杏型
ハーネス:6cm
シュピッツェ:6cm
ピッケルは、よく日本刀に例えられます。
日本刀のように、ひとつの塊から打っていきます。
そしてこのような特異な形に叩き出します。
武士の魂、日本刀には及びませんが、
ピッケルは、やはり雪山に登る人の命を守るもの。
日頃の手入れは当然でしょう。
実は6本の、「ヴィンテージ・ウッド・シャフト・ピッケル」を所持していますが、
偶々「ヤフオク」で、この『秋田・モリヤ』が出品されていたのを見ました。
『秋田・モリヤ』を手にすることは生涯、まず無い、と思っていました。
それが「ヤフオク」に出品され、最後まで残って運よく落札することが出来ました。
貴重な一本です。
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