昭和の時代、岳人たちから敬愛された鹿島のおばばという人がおりました。
JR大糸線「信濃大町」駅らか北北東に直線で10kmのところにある鹿島集落。
爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳の山懐の戸数十一戸のこの集落に、狩野きく能(かのう きくの)さんは、明治二十三年(1890)十二月一日に生まれ、十九歳で幼馴染の狩野治喜衛(じきえ)さんと結婚しました。
おおらかで、気丈で、世話好きで、山男たちから“母”のように慕われ続けたこの女性が、後の鹿島のおばばです。
夫婦は農業にいそしみ毎日毎年を過ごしていました。
鹿島集落は平家の落人伝説が残り、かっては猟師や樵(きこり)、行商人くらいしか入ることがなかったところでしたが大正に入り、鹿島槍ヶ岳は学生山岳部の厳冬期の激しい初登攀争いが繰り広げられ、その拠点となりました。
大糸線「信濃大町」駅から徒歩で十数kmの道、当時はタクシーもバスもなく、重いザックを背負って歩き詰めで狩野さんの家の前を行く姿が目立ち始めました。
畑仕事をしているご夫婦にも、その姿は異様に映ったでしょう。
何故こんな重いものを背負って、山に登るんだと思ったに違いありません。
そのうち、家のそばの道にザックを下ろし休んでいる姿を目にして、やさしいきく能さんは、
「そんなところで休んでいないで、上がってお茶でものんでけ」
と声をかけたはずです。
汗をかき、喉の渇いた登山者は、その一杯の温かいお茶以上に、きく能さんのあたたかいもてなしに感激したことでしょう。
その後、たびたび通る登山者を目にすると、きく能さんの方から声をかけて、お茶を、そして得意の漬物と、名人級といわれたソバを打って振舞ったかもしれません。
そのきく能さんの噂が、鹿島槍を目指す山男たちの間に広がらないはずはありません。
快く応対してくれる鹿島のおばばの話が伝わり、山仲間が必ず立ち寄る場になりました。
大正十年九月、槇 有恒氏による、アイガー東山稜初登頂!
この頃から、厳冬期の鹿島槍登頂が顕著になり、ついに大正十四年四月一日、一高(旧制・第一高等学校、現在の東京大学教養学部)旅行部員、田辺和雄・塩川三千勝・石原巌による、
厳冬期鹿島槍初登頂!
厳冬期の鹿島槍に挑戦する幾多の若い岳人たち。
鹿島のおばばと岳人の付き合いはこの頃から本格的になったようです。
昭和になり、二年三月、京都大学二年生であった今西錦司氏が同僚三人と鹿島山麓へスキーに来て“おばば”の家に泊まりました。
その際、白馬山麓細野で始まった“民宿”の話が出て、“おばば”はふとその話に興味を持ちました。
時に鹿島のおばばは三十七歳、思い立って躊躇なく夫に相談すると治喜衛さんも大賛成し、その年、正式に人を泊める商売に踏み切り、翌三年「鹿島山荘」として民宿デビューしました。
(続く)
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