五十里ダムの水抜きと古の会津西街道・その1 (追記あり) | マターリ日光線ヽ(´ー`)ノ

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http://www.youtube.com/user/mataaari25

水抜きされた五十里ダムの湖底から現れた旧会津西街道の遺構です。

2017年11月13日撮影

 

2017年12月現在

栃木県日光市の男鹿川(利根川水系)に作られた五十里(いかり)ダムは

ダム堤体に穴をあけ新たな放水路を作る工事を行っているそうです。

 

五十里ダム堰堤改良事業

http://www.ktr.mlit.go.jp/kinudamu/kinudamu_index051.html

 

その改良事業のためにダムの水位が下げられ

普段では眺めることが出来ない光景が広がっています。

 

男鹿川沿いには石積みの旧道が露わに。

その見事な石積みに興味が湧いたので素人ながら色々と調べてみました。

 

…すっかりブログをサボっておりますね

皆様お久しぶりです(;´∀`)

普段は鉄道の話題中心のブログですが

気まぐれで?つらつらと書いてみたいと思います

 

 

紅葉が見事な11月初旬

鬼怒川温泉の更に奥、川治温泉の北側に位置する五十里ダムの様子です

 

五十里ダム - 鬼怒川ダム統合管理事務所

http://www.ktr.mlit.go.jp/kinudamu/kinudamu_index003.html

 

1941年(昭和16年)に着工し1956年(昭和31年)にて完成

その後付近には川治ダムや川俣ダム、湯西川ダムが作られており

各ダムとの連携を行い水を管理する「鬼怒川上流ダム群」を成しています。

 

記憶に新しい2015年9月の関東・東北豪雨では

その洪水調整能力を遺憾なく発揮し被害の軽減に勤めたそうです。

 

この時の鬼怒川4ダム様子は

ダムウォッチャーがTwitter上で実況・解説しまとめサイトにまとめられる、

という何とも現代を象徴する様な出来事もありましたね。

 

「ダムがんばれ!豪雨の被害を最小限に食い止めるべくギリギリ の対応をするダムと職員達」

https://togetter.com/li/871876

 

 

 

工事用の足場が組まれ穴を掘削する作業が続いています。

総貯水容量は55,000,000 m³

膨大な水を溜め込むためのコンクリートもまたかなりの迫力がありますね。

 

 

五十里ダム事務所から国道121号線を北へ

トンネルを抜け坂を下ると「海尻橋」へぶつかります。

五十里ダムの工事と共に作られたアーチが美しい橋です。

 

現在では男鹿川の西岸に新たなバイパス道が作られたため

海尻橋を経由する東岸の道路は国道121号線の旧道となっています。

 

 

「海尻橋」から男鹿川の下流方面・五十里ダム方面を望む

紅葉している木々の植生からして

五十里ダムの普段の水位が伺いしれます。

 

そして渓谷に貼り付くような姿の旧会津西街道が露わに。

国道121号線を五十里ダム方面へ散策してみます。

 

 

男鹿川へ合流する沢筋を跨ぐ橋跡です

驚く事に橋の親柱がしっかり立っています。

 

また石積みの築堤も2重構造となっており

嵩上げなどの改良工事を行ったと思われるフシが。

 

湖底に沈みながらも

ここまでの姿を保っていられたというのは何とも不思議です。

 

 

橋跡の下流にある巨大な岩も印象的です。

恐らく…ではあるのですが

この岩こそが会津藩と宇都宮藩・日光神領との境界を示していた

「御判石(ごはんいし)」では無いかと思われます

 

二間四方、約12mの巨石だったそうですが

五十里ダムの貯水により横倒しとなったらしく。

 

 

写真の時期は不明なのですが川治温泉の絵葉書より。

そびえ立つ御判石の姿を見ることが出来ます。

 

 

御判石がある付近の国道121号には

「御判橋」と名付けられた橋が掛かっており

その巨石の名が由来だという事が分かります。

 

湖底から露わになったあの橋跡もまた

もしかすると「御判橋」だったのかも?しれません。

 

 

石積みは崩落してしまっている箇所も見受けられます。

道路の構造が見受けられ興味深い所です。

 

 

「五十里ダムトンネル」の北側付近から男鹿川の上流を望む。

画像にはには写っていませんが左側に海尻橋があります。

 

そして紅葉がえぐられた様な地形の緑地が目につきますが

この場所が「掘割」と呼ばれる地区となります。

 

この地ではかつて大地震により天然ダムが出現した事があり、

その水抜きに立ち向かった人々の痕跡が今も地形として残っていたり。

 

 

掘割地区にある「いかりちびっこ広場」

そこにはこの様なお墓があります。

 

高木六左衛門の墓

http://system.nikkobrand.jp/nominate_history_detail.shtml?0:140

 

天和3年(1683年)にM6.8の大地震がこの地区を襲い

西岸にそびえる葛老山の山腹が崩落、

男鹿川がせき止められ天然ダムの「五十里湖」が出現する事に。

 

説明の看板にもある通り

このせき止め湖の出現は

会津藩を始めとする東北の諸藩にとって重大な問題となったため

水抜き工事を命ぜられた高木六左衛門が…という伝説です。

 

図書館で眺めた「藤原町史」などによると

堰止め湖が出現した当初から水抜き工事は行われており

掘割地区で表面の土を約4mほど取り除いた所で

強固な岩盤につきあたり工事は中止。

 

完全な水抜きには失敗したものの、

新たな水の流れが出来て滝となっていたそうです。

 

その後の「海抜け」と呼ばれる五十里洪水の発生まで40年間ほど、

せき止め湖へ流入・流出する水のバランスを保つことに成功していた、

とも言えるのかもしれません。

 

また五十里湖の出現から25年後の宝永4年(1707年)

会津藩は再び水抜き工事を試みたそうです。

 

江戸の業者へ土木工事を依頼、

高木六左衛門の夢破れた岩盤へ挑んだそうですが

当時の土木技術では如何ともしがたく

15年後の亨保8年(1723年)の大雨にてせき止め湖は決壊。

五十里洪水と呼ばれる未曾有の大災害として、

様々な痕跡と記録が残される事となった様です。

 


責任を負っての自害。

あくまで伝説であるそうですが

その悲劇はまた現代へ至る会津西街道の歴史なのでしょうね。

 

激動とともに生きる 五十里 - 栃木県

http://www.pref.tochigi.lg.jp/h53/system/desaki/desaki/1182249442395.html

 

 

 

 

 

国道121号線の旧道から男鹿川・湯西川の合流点を望む

 

海尻橋の上流側は荒々しい岩肌の渓谷から一変し

広大な砂漠の様にも見えます。

 

五十里ダムが建設される以前、

湖底に沈む前には「海跡」と呼ばれる地名があったそうです。

 

海尻橋や海跡、

湖ではなく「海」と名付けられた地名の数々は

出現した天然ダム湖・旧五十里湖の大きさの現れでしょうか。

 

 

砂漠の様な「海跡」に何かしらの基礎らしき構築物が。

鉄塔や吊橋の基礎の様にも見えます。

 

五十里ダム建設以前には

「五十里発電所」が存在していた様でその遺構かもしれませんね。

 

こちらの画像は11月下旬に訪れた時に撮影したものなのですが、

最初に訪れたときには気が付かなかった点が幾つもありました。

 

 

こちらにもコンクリートによる構築物が。

五十里ダム建設時のものかそれ以前か…さてはて。

 

また海尻橋の上流でも石垣が残っており、旧道跡かと思われます。

 

※追記(2017.12.12)

つい最近開設された五十里ダム管理支所さんのツイートによると

工事用水力発電所の遺構だそうです

 

 

 

 

野岩鉄道[湯西川温泉駅]といえばこの風景。

橋梁をお馴染みの列車が走りますが

こちらも水抜きにより風景が一変していました。

 

 

再び訪れた五十里ダム。

11月下旬となる紅葉の彩りは薄まり雪が舞う寒さに。

 

 

川治温泉付近の男鹿川東岸から望む五十里ダムです。

この道路があの石積みの築堤へ繋がっていた…と思われます。

 

 

かつての天然ダムと近代における五十里ダム。

会津西街道と共に生活を営んできた人々と悲哀の数々。

色々と調べてみると、

会津西街道という街道もまた様々な変移を重ねている様です。

 

あの男鹿川東岸へ設けられた石積みの道路は一体何時頃のもの?

そんな疑問から興味を持つことに。

 

次回の記事では、

その辺りの考証をまとめた記事となる予定です。

 

…予定です…何時になるかはさておき(;´∀`)