ここまで自分の人生を振り返って、ひとつ、はっきりしてきたことがある。

私はずっと「共在」を求めていたのかもしれない。

 

以前は、そんな言葉すら知らなかった。

でも、振り返ってみると、ずっと求めていたのは、

「誰かと一緒にいて、自分もそこにいる」

という感覚だったのではないかと思う。

誰かに勝つ。

凄い評価をもらう。

欲しかった物を買う。

女性にモテる。

家庭を持つ。

私はこれまで、いろいろなものを手に入れてきた。

 

でも、どこかイマイチ手応えがなかった。

なぜだろう。

 

最近、その理由が少し分かってきた。

自分を置き去りにしながら何かを得ても、そこには共在が生まれにくいからではないか。

「評価されている自分」はいても、それを喜んでいる自分が置き去りになっている。

「家庭を持っている自分」はいても、その関係の中で自分がどう感じているのかが置き去りになっている。

「誰かに愛されている自分」はいても、自分自身が何を求めているのかが分からなくなっている。

そんな状態では、外から見れば何かを手に入れていても、内側には手応えが残らない。

 

そして、今になって思う。

 

私は、自分を縛る強固な型枠を作って生きてきた。

その型枠は、自分を守るために必要だった。

でも同時に、自分を置き去りにするシステムにもなっていた。

だから、型枠をあまり持っていないように見えた人に惹かれたのかもしれない。

 

元妻と一緒にいると、

「この人と一緒なら、自分も少し自由になれる」

そんな感覚が、どこかにあったのかもしれない。

でも、そこで私は「この人が自分を救ってくれる」と勘違いしていた部分もあったのだと思う。

 

当然、誰かが自分の人生を代わりに救い出してくれるわけではない。

自分の型枠から出るのは、自分自身にしかできない。

 

ただ、それは「全部自分一人で頑張らなければならない」という意味でもない。

誰かと一緒にいることで、気づくことはある。

誰かとの関係の中で、自分の知らなかった自分に出会うこともある。

私にとって、それが元妻だったのかもしれない。

 

そして、もっと以前にも、私は「共在」を体験していたように思う。

独立する前、勤務先で酷いいじめに遭っていた時期があった。

 

ある日、限界を迎えた。

そのとき、それまで自分を占拠していた「相手の意図を解読する」という癖が、弱まった。

誰かが何を考えているのか。

なぜそんなことをするのか。

どうすれば相手に認められるのか。

そこに使っていた思考の余地がなくなった。

 

その代わりに、

「今、自分は何を感じている?」

「自分は何を思っている?」

ということを考える余地が生まれた。

「どうしたい?」とまでは、まだいかなかった。

でも、「今、何を感じている?」というところに戻れた。

 

すると、人に対する自分の反応が変わった。

ちょうどその時期、感情的なクレーマーが病院に怒鳴り込んできたことがあった。

以前の私なら、

「この人は何を要求しているんだろう」

「何が目的なんだろう」

「どうすれば怒りを収められるだろう」

と、相手の意図を読もうとしていたと思う。

でも、そのときは違った。

相手の意図を読むことよりも、

「私は今、この人に対して何を感じているんだろう」

というところに意識を向けた。

不思議なことに、自分の中には妙な冷静さがあった。

 

そして、クレーマーのトーンが少しずつ下がっていった。

最後には、まるで昔からの友人と話しているような感覚になった。

もちろん、相手がなぜ落ち着いたのかを私が完全に説明できるわけではない。

でも、私自身がそのとき感じていたものは、今振り返ると「共在」と呼べるものだったと思う。

相手をコントロールするのではない。

相手の意図を解読して身構えるのでもない。

自分もここにいる。

相手もここにいる。

ただ、その場に一緒にいる。

そんな感覚だった。

 

ところが独立すると、また「自分はこの仕事をしていいのか」「お金をもらうに値する男なのか」という感覚が強くなった。

そして、再び自分を置き去りにする癖が戻ってきた。

あの頃の共在は、

いじめてくる職員。

支えてくれる女性。

プライベートで支えてくれた彼女。

そして、雇われている安心感。

そうしたものが絶妙なバランスで重なったから生まれた、二度と起こらない奇跡なのだと思っていた。

だから、その感覚を取り戻そうとはせず、別の方法を探した。

勉強した。

知識を増やした。

技術を身につけた。

本を読んだ。

考え方を増やした。

でも、やればやるほど、共在から離れていった。

そして離れたことを、

「まだ努力が足りない」

と決めつけ、さらに努力した。

 

今になってみると、とても不思議なことだ。

あの頃の感覚は、もう失われたものだと思っていた。

でも、最近になって少しずつ思い出してきた。

きっかけは、特別な知識でも、特別な技術でもなかった。

「自分を置き去りにしないこと」

だった。

相手の意図を解読している。

自分が置き去りになっている。

息苦しさを感じている。

それに気づく。

そして、

「私は今、何を感じている?」

と、自分のところへ戻る。

 

それだけ。

もしかすると、私がずっと探し続けていたものは、遠くにある何かではなかったのかもしれない。

自分をもっと立派にすることでもなかった。

もっと強くなることでもなかった。

もっと知識を増やすことでもなかった。

もちろん、それらをすることはこれからもあるだろう。

 

でも、その前に、

自分を置き去りにしない。

それだけでよかったのかもしれない。

 

そして今、私は初めて、

「共在とは、誰かが自分を救ってくれることではなく、自分も相手も置き去りにせず、一緒に存在できることなのかもしれない」

と思っている。

 

私はずっと、何かを手に入れれば満たされると思っていた。

でも、本当に欲しかったのは、

「何かを持っている自分」ではなく、

「自分がちゃんとここにいる」という感覚だったのかもしれない。

 

そして、その自分と一緒に誰かがいる。

それが私にとっての「共在」なのだと思う。

昔、偶然触れていた感覚が、今になってもう一度戻ってきた。

それを思うと、驚きと同時に、何とも言えない感謝の気持ちが湧いてくる。

最近、自分の中にある「型枠」について考えるようになった。

 

私はこれまで、

「こうでなければならない」

という考え方をかなり強く持って生きてきたように思う。

 

人とは義理を重んじるべきだ。

男は強くなければならない。

仕事をするなら、これくらいできなければならない。

人から認められる人間でなければならない。

自分の立場に値する人間でなければならない。

 

こうした考え方は、これまでの私を支えてくれた部分もある。

何をすればいいのか分からないときでも、「こうするべきだ」という基準があれば動くことができる。

だから、これは単純に悪いものではない。

 

むしろ、自分を守るために作ってきたものだったのだと思う。

ただ、最近になって気づいた。

 

この型枠を守ることに一生懸命になるほど、型枠の外にあるものを排除するようになっていたのではないか。

「こんなことを考えてはいけない」

「こんなふうに感じてはいけない」

「もっと強くならなければ」

「まだ足りない」

 

そうやって、自分の感情や弱さまで型枠の外へ追いやっていた。

そして、その結果として自分自身が置き去りになっていた。

私は人との関わりでも、相手の意図を解読することにかなりのエネルギーを使ってきた。

 

相手は何を考えているのか。

自分はどう見られているのか。

どうすれば相手にとって価値のある人間になれるのか。

 

それを考え続ける。

でも、その間、

 

「私は今どう感じているんだろう」

という問いが後回しになる。

 

相手を理解しようとしているのに、自分を理解することが抜け落ちていた。

そして、独立してからも同じようなことが起きた。

 

お金をもらって仕事をする責任。

自分が独立していていいのだろうかという不安。

「自分はこの仕事をするに値する男なのか」

という感覚。

 

その不安を打ち消すために、私は必死に勉強した。

知識を足した。

セミナーを受講した。

技術を身につけた。

本を読んで、新しい考え方を足した。

もちろん、それらは無駄ではなかった。

今の自分を作ってくれた大切な努力でもある。

 

でも振り返ってみると、

「今の自分では足りない」

という前提で努力していた部分もあった。

 

だから、やればやるほど、

「もっと必要だ」

となっていった。

 

そして、人との共在から離れていった。

さらに、

「共在できないのは、自分の努力や行動が足りないからだ」

と考え、また努力する。

 

そんな循環になっていたのかもしれない。

 

今思えば、私は型枠の外へ出ようとして、型枠の中で一生懸命努力していたのだと思う。

そして、そのことに気づいたとき、元妻との関係も少し違って見えてきた。

 

私は元妻の人格的な部分や、離婚後に実は男がいたことなどによって、とても苦しんだ。

離婚後しばらくは、

「彼女の問題によって自分は苦しめられた」

という考えが強かった。

 

もちろん、相手の言動によって傷ついたことまで否定する必要はないと思う。

ただ、今はそれとは別に、

「自分はなぜあれほど苦しかったのだろう」

ということも考えられるようになった。

 

人とは義理を重んじるべきだ。

こんなことは理不尽だ。

男はそれでも強くなければならない。

そういう自分の型枠に強く縛られていた。

 

そして、離婚後も彼女を批判することで、

「情けない自分」

「他の男に奪われたようで辛い自分」

「こんなに頑張ってきたのに、という自分」

を見ないようにしていたのかもしれない。

相手を批判することで、自分の痛みを排除していた。

 

そう考えると、これまでの苦しみが少し違って見える。

「元妻が悪かった」

「自分が悪かった」

という二択ではない。

 

相手との間で実際に傷ついた自分がいて、そのうえで私は、自分の感情よりも「こうあるべき」という型枠を守ることを優先していたのかもしれない。

 

そして、型枠を守れば守るほど、自分自身を置き去りにしていた。

 

だから、これからは型枠を全部壊そうとは思わない。

価値観も大切にしていい。

義理を重んじることも、強くありたいと思うことも、努力することも悪くない。

ただ、

「こうでなければならない」

という考えが出てきたとき、

「あ、今、型枠が発動しているな」

と気づければいい。

 

そして、

「でも、自分は今どう感じているんだろう」

と戻ってくる。

 

相手を型枠に入れない。

同時に、自分自身を型枠に押し込めない。

その間に、今まで知らなかった生き方があるのかもしれない。

そして、そこを考えていくうちに、私は自分が本当に求めてきたものが何だったのかに気づき始めた。

それは「勝つこと」でも「認められること」でもなく、もっと別のものだった。

最近、簡単な瞑想の方法を教えてもらった。

そこで改めて知ったのは、瞑想とは「無心になること」ではないということだった。

 

頭の中から考えをなくすことでもない。

嫌な感情を消すことでもない。

 

むしろ、

「今、自分はどうなっているんだろう」

と気づくこと。

 

それだけでも瞑想になるのだという。

 

考えが浮かんできたら、

「あ、今こんなことを考えているな」

と気づく。

嫌な気持ちが出てきたら、

「ああ、今こう感じているんだな」

と認める。

 

そして、それを無理に排除せず、そのままにしておく。

 

最近、この考え方が日常の中でも少しずつ分かるようになってきた。

 

例えば、掃除をしているときのことだ。

私は以前から掃除をすること自体は嫌いではない。

 

でも、同じ掃除でも、やっているときに息苦しくなることがある。

 

よく考えてみると、

「この状態を誰かに見られたら、どう思われるだろう」

「整理整頓が行き届いていないと、良くないことが起こるかもしれない」

そんなことを原動力にしているときだった。

 

一方で、

「ここ、ちょっと気持ち悪いな」

「じゃあ、靴を少し揃えよう」

「このガラス、ちょっと汚れているな。磨いてみよう」

と、自分自身の感覚から掃除を始めると、不思議と息苦しさがなくなる。

同じ「掃除」という行動なのに、出発点が違うだけで、自分の感覚がまったく違う。

そこで気づいた。

 

大切なのは、苦しい状態をすぐに治すことではないのかもしれない。

まず、

「今、息苦しくなっている」

と気づくこと。

そして、

「なぜだろう?」

と、自分の内側を見ること。

 

それだけで、すでに何かが変わり始めている。

嫌な気持ちについても同じだった。

 

例えば、自分の衰えを冗談抜きで残念に思う気持ちが出てきたとする。

「こんなことを考えるべきじゃない」

「年齢なんだから仕方ない」

「前向きにならなければ」

と、その気持ちを排除しようとすると、かえって苦しくなることがある。

 

そうではなく、

「自分は今、衰えていくことを残念に思っているんだな」

と認めてみる。

悲しいなら悲しい。

悔しいなら悔しい。

残念なら残念。

それをすぐに消そうとしない。

 

もちろん、これは諦めることとは違う。

感情を認めたうえで、必要なら行動すればいい。

 

ただ、感情を消してから行動する必要はない。

最近、人との関わりでも同じことが起きていることに気づいた。

私は人と関わるとき、相手の意図を解読しようとする癖がある。

「この人は何を考えているんだろう」

「なぜこんなことを言ったんだろう」

「自分はどう対応するべきなんだろう」

そうやって相手のことを考えているうちに、自分自身が置き去りになる。

そして、そのとき私は息苦しくなっている。

 

だから最近は、

「相手の意図を解読しようとしているな」

「自分が置き去りになっているな」

「そして、息苦しさを感じているな」

と気づくようになった。

 

ここで大事なのは、

「相手の意図を考えるのをやめなければ」

とすることではない。

「息苦しさを消さなければ」

とすることでもない。

 

ただ、

「今、こうなっている」

と気づく。

それだけでいい。

考えを排除するのではなく、気づく。

感情を排除するのではなく、気づく。

そして、自分のところへ戻ってくる。

 

そう考えると、瞑想は特別な時間に座って行うものだけではないのかもしれない。

掃除をしているときにもできる。

人と話しているときにもできる。

嫌な感情が湧いてきたときにもできる。

 

「今、自分は何を感じている?」

そう自分に問いかけること。

 

もしかすると私は、これまでずっと「自分を変えること」に一生懸命になりすぎて、「今ここにいる自分」に気づくことを後回しにしていたのかもしれない。

瞑想を始めて、そんなことを考えるようになった。

 

そして、そこからさらに過去を振り返ってみると、私はなぜこれほど「自分を置き去りにする癖」を身につけてきたのか、その理由も少しずつ見えてきた。