私が自分にプライドを持てるとしたら、散々な目に遭った2005年のフロリダ留学から逃げ帰ったことではなく、その後に措置入院、失恋を経てどん底から這い上がるために玉熊ジムでのスパーリングを2008年の3月誕生日から2010年の冬に力尽きるまで続けたことだ。私が、最初のスパーリングを誕生日に選んだのは、私らしいというか、これから始まる茨の道を自分にプレゼントするというどぎついジョークであった。同時に、プロテストの受験資格が32歳までであったので、33歳からスパーリングを始めるのはプロの試合は手が届かないと認識していて、オヤジファイトをターゲットとすることを意味していた。

 

 スパーリングに夢中になり自信を回復できた2009年春のキューバから幾つもの旅をこなしてきて、2026年春の今、来年韓国ソウルへの旅の準備に集中している。そんな今、記しておきたいのは、私の最初のスパーリングの相手をしてもらった塩谷さんのことだ。私が玉熊ジムに入門したのは2006年暮れか2007年始めか、記憶が定かでないが、スパーリングを始めるまで1年位修練が必要であった。その間、私が練習する時間は塩谷さんの練習時間と重なり、毎日のように顔を合わせた。塩谷さんが毎日頑張っているのを見ていて、私は、この人にスパーリングの相手をしてもらうなら、とその頃習慣だった煙草を止めることができた。禁煙は塩谷さんのおかげだ。塩谷さんとの最初のスパーリングは試運転もいいところだった。でも、スパーリングをこなしたということで未来が開けた。

 

 二回目のスパーリングはプロテストを控えた加藤さんとガチのスパーリングだった。鼻血を出し、いいパンチをもらい一度ストップを掛けられた。

 

 三回目のスパーリングは塩谷さんだった。塩谷さんは私が加藤さんとのスパーリングに耐えたことを知っていたのだろうか、無茶苦茶なボディー打ちで痛めつけてきて私は全治1週間位の脇腹痛を負った。でも、塩谷さんは私の頭を殴ることはなかった。将来ダメージが残らないようにと、塩谷さんは私が格闘家でないことを見抜いていた。

 

 四回目のスパーリングからははっきり覚えていない。プロの太田君だったか、塩谷さんだったか。でも、塩谷さんとのスパーリングを中心にして、他のプロや練習生とのスパーリングが回っていった。塩谷さんとおまえやるなら、俺ともちょいと付き合えよという感じのスパーリングの回り方だった。

 

 だから、塩谷さん以外の人には頭も殴られるガチのスパーリングにほぼなった。塩谷さんはその私の奮闘する姿を見ていてくれた。そんな私をいつも応援してくれた。スパーリング中にリングの外から、塩谷さんに声を掛けられていた言葉は鮮明に思い出せるものもある。その思い出は懐かしい。

 

 塩谷さんは英雄だった。

 

 2008年5月の伊藤博文戦に勝ちランカーになった試合には涙が出るほど感動し、隣で一緒に試合を見ていた練習生に「俺、ランカーとスパーしました!」などとわめいていたのも懐かしい。その後、方波見戦に敗れた塩谷さんを見て、塩谷さんの実力はこんなものではないと、次の試合の和宇慶戦には全身全霊を懸けてスパーリングの相手をした。といっても、塩谷さんとはボディーを滅茶苦茶に打たれるというスパーリングである。しかし、私の両脇腹には大きい痣ができていて、その痣を見せた練習生にはその痣でまだスパーをやるのか?というように驚きの声を掛けられた。

 

 和宇慶戦に塩谷さんは敗れたが、塩谷さんに私の応援は届いていた。2010年の3月25日だった。私は徐々に力尽きていった。そして、2010年の夏にその後プロになる荒井君にスパーリングでぶちのめされて、気持ちが切れてしまい、海で太鼓を叩く夏を過ごした。2010年冬の、空手をやっていた練習生のおじさんとのスパーリングで殴られたのを最後に私はスパーリングから遠ざかった。

 

 今年、2026年の先日、塩谷さんは玉熊ジムの選手の試合を見に行った様子をSNSに上げていた。2026年3月25日の試合だった。写真の塩谷さんは黒い服を着ていて笑っていた。21:47分。その記事のアップデートの時間だ。塩谷さんもかつてバックパッカーだった。

 

3月25日、21:47分。タイトルマッチ経験もあるランカーと、時空を超えて、共振できた。