今回は論文調ではなく、文章を砕いて書いてみようと思います。
テーマは「伝道の是非」です。
僕自身は神の事は語るのですが、殊更それを人に伝えようとは思いません。
神を必要としないということは、それはそれで結構なことだと思うのです。
キリストも言いましたが、丈夫な人には医者はいらないのです。
無病息災で質実剛健、家庭も持ち、勤勉に仕事に勤しむ。
そんな人に、あえて信仰は勧めません。その人はそれでいいのだと思います。
神もまた、そのような人生をも肯定してくださると思います。
ただ、生きていることが苦しい、病気や怪我はたまた過労による神経衰弱によって
大変な毎日を送っているという人がいるのなら、キリストを信じてみませんか?
と勧めるかもしれません。
パウロの言葉である「万事が益となる」、この信仰は、不幸であるからこそ
花が開くのです。苦しみを肯定し、それを人生において役に立たせる、
そんなことが出来るのは宗教しかありません。
それは理性の問題なのではなく、信仰の問題なのです。
ヒルティの言葉に「悪い日が実は良き日」である、というものがあります。
それが無かったならば、人間は浅薄に陥り、真面目な思想に到達することが
無いからだと言うのです。
神が求めるのは自主性であり、強制で連れてこられるのではなくて
自分から求めてくる人を必要としているのです。
そう考えると信仰は賜物であり、
神からの選びというものが存在するのかもしれません。
我々に出来ることは信仰によって得た果実の実例を示すことだけです。
しかし、真のキリスト者の人生は悲惨そのものです。
ヒルティは神は自分に近いものにほど、それだけ厳格になると言います。
日本における理想的なキリスト者であった内村鑑三は、
奥さんや娘に先立たれ、また教会からも
追放されてしまいました。
彼は「日本のヨブ」と呼ばれ、患難の問屋だと言って嘲け笑われました。
信仰者の人生は明るい側面よりも暗い側面の方が多いのです。
だから、今を幸せに生きている人に、
狭く困難なこの道を勧めるのは忍ばれるのです。
我々の仕事は「生きる」という、そのものです。どんな人生だって良いのです。
しかし、生きている以上、何人も苦しみから逃れられる人はいません。
どうせ避けられないのなら、
その「苦しみ」に意味を与えようと試みる人がいるなら
その時は、我らが主のことを伝えよう、そう思うのです。
最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。
ありがとうございます。今回は伝道の是非について語りました。
こんなことを言うとヒルティに怒られるんじゃないかと思う内容を書きました。
彼は世俗の道よりも信仰の道の方が遥かに容易なものである、
という主張でしたから。
愛する、愛する、愛する皆様へ。
最初はクリスチャンの人が見てくれることが多かったのですが
最近は、信仰は持ってない、という人も読者になってくれています。感謝です。
ただ、無信仰の人にとって、
僕の文章は退屈になってはいないかと危惧しております。
今回も長々と付き合って頂き、ありがとうございます。
皆さんの人生は幸せなものであるように祈っております。
それでは、また、お会いしましょう。お元気で。