私は内村鑑三の支持者であり、その全集も購入して読んでもいるが、彼は聖書というものを重要視しすぎたのではないかと思われる。彼の言うところによれば、人生の目的とは神を知ることである、と簡潔に述べられている。しかし、無信仰に人に対して宣教する時、神を伴う生活というものが想像出来ず、信仰者の生活が、あまり魅力的ではないことを懸念する。パウロが頑ななまでに主張したのは、行いではなく信仰によって救われる、というものである。これは真理であり道徳的な行いよりも、信仰の方が大切なのである。しかし、そのことを、はっきり悟るものは、自発的に神に向かうものであり、そのような人に対して、神は、恵みと寛容の神ではなく厳格な父親としての懲らしめの神となるのである。そのような人に対しては試練を絶え間なく送られ、神の特別な保護下におかれる。その場合、試練の火の温度が高まることは良い傾向であり、その人の欠点や自我や誇りを完膚なきまでに破壊し、謙遜という、人間が生来の内に持ちえない、人間としての最高の性質を与えるのである。

 しかし、そのような人は特別に選ばれた人のみに起こることである。そのような人は牧師の説教や教会の権威なども必要なく、常に新鮮な信仰を持ち続ける。しかし、このような人達は決して幸福などではなく、繰り返される試練のために、しばしば不幸であることも稀ではない。そのような人達の持つ特徴とは、普通では考えられない程の道徳性であり、聖書の主張する、極めて高度な道徳を実践できることである。

 キリストによる血の贖いは、まったくもって感謝することしかない。しかし、それを自覚するのは自分の罪に思い悩んだ人のみが行えるものである。聖書やキリスト教を学ぶことによって、最も恐ろしい宗教的傲慢に陥る危険性がある。C・S・ルイスは最も重い罪は傲慢であると言った。人間は順境に生きていると、仕事に対する成功の成果や技術の練達によって、知らず知らずの内に傲慢を、その身に養ってしまう。成功によって増長した自我は容易に神を否定する。そのような人に信仰を勧めても無駄である。己の自我が神なのである。

 聖書や信仰に耳を傾ける人は、ある程度不幸な人である。信仰者が行えるのは、信仰によって得た果実、つまり道徳性によって完全に浄化された慈悲を他の人に示すことである。パウロは簡潔に、あなたの寛容を示しなさいと言っている。また、この信仰は本当の生活の知恵や、真に偉大なる文学に対する読解力をも養う。そのために自己肯定感や虚栄心に悩まされることがない。認識力や考察能力なども歳を経る度に、ますます増していく。恐らく、そのような人は不幸であろうが、その人に関わる人は幸福であろう。

 人間に求められていることは、行いではない。むしろ、神への憧れのような、子供のような純粋な信仰心である。しかし、これは膨大な知識によって成長した人にとっては、最も縁遠いものである。かと言って、信仰についても、とやかく言われるのも望ましいとは思われない。個人的な意見を言わせてもらえば、博覧多読によって、キリスト教こそが最も道徳的であり、理性の点からいっても、この教えが、人間の考えたきたもので最も理想的なものである、という認識によって、信仰の道に、導かれるのが良いのではないかと思う。釈迦、孔子、ソクラテスなども学んだが、キリストは明らかに異彩を放っている。確かに、キリスト教を信じる上で、死者の復活だとか処女の妊娠だとか、超常的な奇跡を信じなければならない。また、人でもあり神でもある、という存在も肯定しなければならない。

 しかし、それらのことはヒルティが言うように、頭から信じてみなければならない事柄である。それよりも聖書に書かれていることを実践すれば、数々の祝福を受けるという純粋な信仰心によって、人生を意味あるものにする、という目的で、この宗教に触れるのが最も望ましいと思われる。しかし、その道徳の実践という点でもキリスト教では群を抜いて難しいことであり、単純に復讐するな、それは神のすることだ、だとか、悪に対して善で報いろ、なども難しい言葉ではないが、いざ実践となると中々、困難である。だから、信仰心がある程度進むと、自分の善を為す力の不足故に、信仰心の方を道徳心よりも重要視する、ということになるのであるが、これは信仰に疎い者にとっては不可解なことかもしれない。私の個人的な意見を述べるなら、神という存在を肯定し、なおかつ、その存在が自分の味方なのだと認識することだけで良いと思っている。宗教を学問の対象にすることは、宗教的傲慢、パリサイ派の助長になりかねないので、聖書に対する知識はない方がよいのかもしれない。深遠な学問を学ぶより、朝起きて、まず一日を始めてくださったことを、偉大なる主人に対して感謝の祈りを捧げることの方が大事だと、そう思うのである。

 

 最後にいつも、いいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。僕のブログを読んでくださっていたクリスチャンの方が三名も、ブログを、お休みしてしまいました。僕自身、このような啓蒙活動に意味があるのかと思い悩んでいます。僕個人的なものを言えば、宗教によって与えられた幸福よりも不幸の方が断然多かったので、牧師のように、あらゆる人に神を勧めるということも憚れました。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕自身は、このような宣教活動をするのは時期尚早だと考えています。しかし、未熟者としての視点もまた、振り返って考えてみた時に記事に残しておくことも悪いことではないと思いました。わざわざ、いいねを下さる方もいることですし、また害もないと思うので、細々と続けていきたいと思います。今回の記事は自分でも、つまらないものになったなと思いましたが、せっかく書いたので投稿します。寛大な気持ちで受け取ってもらえることを祈ります。それでは、また、お会いしましょう。お元気で