もし、神の立場で考えることが許されるのであれば、それは、神は自らのことを忘れられても構わないから、人間の幸福度が増すように現代の文明を発達させてきたのではないか、という、一つの議題が提出出来ると考える。すなわち、宗教とは文明が未発達だったために、人間が作り出した迷信に過ぎないのだ、と。よろしい、ひとまず、その仮定を正しいものと考えてみよう。
この現代的な哲学には弱点がある。それは、死に対して、なんら理論武装が為されていないのだ。全ての人間は死ぬのだから、死というものが抗いがたい禍だと言うのなら、結局の所、全ての人間は、最後には絶望して死んでいくことになる。また、このような哲学は、人生に意味などないと断言してしまう。この世において、人間の最大の敵は虚無である。この世で成功して、なにもかもを手に入れたと自負する人が、真っ先に、この虚無に囚われてしまう。ショーペンハウアーの言う通り、必要なものを求めて奮闘することは、それほど悪いことではなく、恐れなければいけないものは、自分の必要とするものが全て揃ってしまうことなのである。
このような欠点を抱えながらも、それでも自分たちは幸福であり、神やあらゆる宗教をお払い箱にしたいのだ、と人々が要求するのなら、神は自ら、この世の舞台から去るであろう。それは神の望まれたことであり、ある人が「神はいらない」と言うのなら、神はその人に対して勝利したのである。
神を信じられない理由は、あらゆる戦争、貧困、疫病、災害に対して完全な沈黙を保つという点が挙げられるだろう。結局の所、神のすることは神にしか理解出来ないことであり、理性や理屈で神を解釈する試みは全て失敗する、と言ってもいいだろう。現代の神の要求は、ただ幸せに生きることであり、昔は信仰であった。現代の人間の義務は「幸せですか?」と問われて「はい、幸せです」と答えることだけである。
また、キリスト教信仰が、この世の正解であり、絶対の価値観であるがために、それを主張する人をも正当化するという弊害も発生してきた。博学な神学の知識が、牧師様の人格に悪影響を及ぼし、本来なら、もっと付き合いやすく親切で謙虚である人物が自分の意見に固執するあまり、付き合い難い人物になることも稀ではないのである。だから、キリスト教信仰者は、自分を正しいと思う傲慢をも捨てなければならなかったと言えるだろう。そうすれば、キリスト教の血みどろの歴史を辿ることもなかっただろうに。
神は人間の積み上げてきた文明を軽視しなかった。さながら、子離れする親のように。育てられた恩を忘れ、独り立ちする人間を、ただ穏やかな視線で見守っているのである。元々、神の作った自然法則を理解するために考え出された科学が、皮肉にも神の存在を否定したように、人間の幸福を願った神が、その幸福によって人間に神の存在自体を否定され始めたのである。
最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回の記事は完全に独断と偏見によるものであり、色んな不興を買うものであると自覚しています。しかし、僕達に必要なものは寛容であり、今の時代、信仰は誰の手によっても強制されてはならないものであると考えます。
愛する、愛する、愛する皆様へ、物事に対する解決策は、どちらが正しいか、というものでなく、どちらの方が愛のある選択であったかを考えなければならないと思います。議論の中には絶対も正解も持ち込んではならないと思います。例え、それが存在していても。(実際、存在していますが)では、この辺で筆を置きたいと思います。皆様の寛大な対応を期待しながら。それでは皆さん、またお会いしましょう。お元気で。