人間が幸福になるに当たって必要なことは、悲喜こもごもの人生そのものを愛する、ということである、と言えると考える。その上で、最も大切なことは、自分の犯した罪に対する報いを全て引き受ける、ということである。つまり、人生の中で起こった苦しみや不幸を、自分の罪に対する贖罪として捉え、その罪を贖うために人生を捧げる、ということに同意することである。苦しみや不幸に対して自分はそれに値すると考えることで、何故、人生の中に、このような不幸があるのか、ということの説明にするのである。
しかし、この考察だけでは、人それぞれあるという幸福観の一つに過ぎず、また、これがあるから幸福なのだという積極的な幸福な理由にもならない。だから、ここでキリスト教という宗教の価値観に頼るのである。そうすると、自分の罪に対する贖いは、もう既にキリストの血によって贖われているので、後は、ただ単にキリストを信じることで、罪によって断絶していた神との関係を修復するだけで良いのである。こんな簡単なことで良いのかと思われるかもしれないが、これが、あらゆる牧師が口酸っぱく繰り返している福音なのである。(キリストの贖いの血で、キリストを信じれば、その人の罪も許される)
しかし、この福音が効力を発揮するのは、自分の罪に思い悩んだ人にのみに適用されるもので、我々の罪のために十字架で死んでくださったキリストの恩恵に深く感謝する人に対してだけなのである。この福音によって、人生に対する愛が、神に対する愛に変わり、この神への愛が人に宿ることで、実行不可能に考えられていた神の掟が行えるようになり、また、この神の掟に従った生活が、幸福でもある、という結論に到達することが出来るのである。
また、キリスト教の価値観に頼ることで、パウロの書簡の中で語られるように、耐えられない試練には遭わないということと、神を愛する人にとっては、あらゆる出来事が益となるという、宗教なしでは得られなかった不幸に抵抗する強固な地盤が得られるのである。福音(キリストの血の贖い)によって得られる神への愛こそが、あらゆる幸福の合言葉であり、宗教なしでは得られなかった普遍的で永続する幸福感なのである。これ以外の幸福は移ろいやすいものであり、また死後における幸福をも約束してはくれないものだ。
人生の中で襲い掛かってくる不幸や苦しみに対して、常に神への愛によって武装することで、これらを克服することが出来る。いや、むしろ、そのような苦痛の中でこそ、神への愛が強くなるので、そのような不幸を厭うことすらしなくなる。さらに、それらの不幸は常に自分を鍛える試練に変わり、パウロの言うように、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことになり、その苦難が希望という名の幸福の種子であったことに気付かされるのである。
これは私見であるが、キリスト者にとっては、如何なる状況や困難な環境の中でおいてさえ、幸福であることが可能であり、一般的に見て、不幸のように思える人が、かえって強い喜びの感情に浸されていることすらあり得るのである。パウロのように、不幸の中でも、常に神からの助けを確信する人にとっては、不幸は不幸でなくなるのである。
最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回の記事はクリスチャンにとっては改めて語る内容ではなかったと思います。いわゆるキリスト教においての救い、つまり罪からの解放とは如何なるものなのか、ということの簡単な説明でした。
愛する、愛する、愛する皆様へ、今回は実践的な幸福の考察ではなく、あくまで神学による救いの考察に過ぎませんでした。本来ならば幸福論と名付ける内容ではなかったかもしれません。僕のブログの中では神は度々、語られますが、キリストについては、あまり語ってこなかったと思ったので、キリストに焦点を当てて一筆書いてみようと思った次第です。それでは皆さん、お元気で。またお会いしましょう。