人間としての成長は何によるか、ということは様々な価値観によって考察されてきたものであるが、様々な文献を当たって、私が一番、適当だと考えるのは、中世の神秘家、アビラの聖女テレジアが繰り返し主張した、謙遜さによるものだと思っている。しかし、この謙遜さは生来の人間は、まるで持ち合わせておらず、己を誇る人は勿論ながら、自分に自信の無い人であっても、本当の自分はすごいと考えたがる虚栄心の虜になっている。こうした謙遜さは、激しい試練の後に、やっと身に付くものである。

 アイデンティティの欠如が叫ばれる昨今、現代の病は、あまりにも苦しみが少なすぎることにある。苦しい経験を通ってきたと自覚する人でも、キリストの十字架を考えるなら、それでも足りないのである。何年間にも及ぶ持続的な苦しみによって、自分に何かしらの価値があると思い上がる傲慢さと共に虚栄心も全く無くなってしまう。自分には、何も価値がない、という状態を虚栄心を持つことなく耐えられるのは、非常に進歩した魂の状態である。

 ここからは私談になるが、私の身内に不幸があって、激しい苦しみと辛い入院生活を強いられ、また、重い後遺症で苦しまない日は一日としてない、という状態に追い込まれた。何をするにも他人の力が必要になり、自分の無力さから、悔い改め、激しく自分を責めるようになった。自分は役立たずだと思うことによって、心が遜ったのである。元々、優しかった、その心は、この苦しみによって慈悲になり、常に遜っているので、彼女と交際する人に常に好感を与える。

 正直に言うと、本の偉大な著作者達は例外として、実際に付き合った人の中で、彼女が最も優れていた。その謙遜さは、高齢の老牧師様達よりも、遥かに優っており、この病気という名の不幸によって、彼女は急速に成長してしまったのである。その容姿も病気によって醜く歪んでしまったが、それに反比例して、心が綺麗になった。彼女は一生、満足に働くことが出来なくなったが、本当に優れた、祈りの人になったのである。そして、その先には天国への道が開いていると、そう思っている。

 本当の天罰は、天罰が下っていることが本人には気付かないことが多い。例えば、老境を迎え、現在は、まるで力のない、誰かの助けを常に必要とする状態でありながら、過去の栄光にすがり、心が常に威張っているような状態が、それである。老人ともなれば、慈悲の心で、誰かの助けになったり、豊富な人生経験から若い人たちへの良き助言者になっていなければならないのにも関わらず、他人の荷厄介になりながらも、自分を偉いと思いこんでいる。これこそ、本当の天罰と言うべきもので、何かしらの病気や障害が与えられる場合は、一抹の天からの赦しが含まれているのだ。

 何かしらの欠点が、その人を遜らせるのであれは、その欠点は良いものである。諸悪の根源は、自分の事を何か偉いものであると思い込むことであり、自分には足りないものがあるという自覚が、他人への感謝を生み、また、本当に神の存在を必要とするのである。自分一人で満ち足りていると、容易に神をお払い箱にしてしまい、何でも自分の力で、自分の幸福を築き上げてきたと思いがちである。山上の垂訓である、心の貧しいものは幸いである、という言葉は本当に深い意味を持っており、何かを持っていることよりも、自分には誇るものは何一つない、という状態の方が良いのである。

 また、この世には苦しむ人がたくさんいる。それらの人達に同情するためにも、自分自身も、この世で苦しむ者であることは、光栄なことである。苦しむことによって謙遜になり、その謙遜さの度合いが、その人の成長と深く関わっているのである。人間は歳を重ね、出来ることが多くなり、その度に傲慢になっていくのが、人間の性なのかもしれないが、逆に生活苦から謙遜にされる場合、確かに、そこには神慮があるのだろう。

 貧困や飢餓を失くすことが世界のスローガンであったのであるが、それが良い事だったかどうかは分からない。確かに言えることは、それらの苦しみを神は善用なさる方であり、その苦しみを通して人を成長させてきたのである。凡庸性と卑俗性が、現代の病となり、他人を攻撃したり、見下すことによって自分のささやかな自己肯定感を満足させようとする営みは、神を失った人々の欠陥なのかもしれない。そのような人たちには、その虚栄心を失くすためには、大きな試練が必要なのであるが、神は、それを与えようとはしないのである。

 

 最後に、いいねをくれる人達に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は、幸福でもなければ、能力が優れているわけでもないけれど、非常に進歩した魂を見て、それに触発されて、この記事が書かれました。今は、まだ難しいと思いますが、彼女が、その障害を誇ることが出来る日がくることを待ち望んでいます。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕は現在、様々な読書によって思索することが多いのですが、神の存在を肯定すれば、容易に答えは出るのですが、一度、神を否定してしまえば、物事は途端に複雑になり、結局の所、答えは分からないということになってしまうと、強く感じます。学べば学ぶほど分からなくなるのです。答えはないし、正解もない、という価値観の中で、あくまでも自分の力で生きなければならないという、現代の若い人達は大変だろうと思います。これから、人生のレールから外れ、道に迷ってしまう人も数多く出ることでしょう。しかし、その経験が、人生を深く学ぶ契機となることを願ってやみません。それでは、またお会いしましょう。お元気で。