本当の信仰への鍵は、自分の無力さを実感することによって、自分自身に対する信頼を根本から打ちのめし、それを神に対する信頼に置き換えることである。キリスト教的に言えば、謙遜さによって、神に近づくことだとも言えるだろう。この世に対して、永続的な力、というものは存在するであろうが、それが与えられるかどうかは、ひとえに神に御心によるものであり、本当に神の御心に沿うのは、この世において貧しくあることだと言えるだろう。というのも、人間において、本当に価値のある性質というものは、幸せな境遇によって作られるものではなく、むしろ、過酷な環境の中で育まれることの方が圧倒的に多いからだ。

 こう言ってしまうと反感を呼んでしまうかもしれないが、我々の望みは来世において求められるものであり、この世においては、ほどほどのもので満足するか、それとも激しい試練や迫害の中で、苦しみながら生きることなのである。幸福というものは、外的環境によるものではなく(それも与えられることもあるが)内面的なものによって、それを達成することが望ましいと思われる。仏教的価値観を持ち、厭世主義者でもあったショーペンハウアーも、幸福は人柄による、と言っているし、古代ギリシャ・ローマの哲人も幸福は、本人の徳によるものだ、という価値観を示している。

 自分の意図を持って始められることが、悉く失敗し、肉体的な欠陥や病気によって、常に苦しめられている、ということは、明らかに神の恩寵であり、そのような人は成功によって高ぶることがない。ヒルティは、成功をするということ自体が、その人に対する罰なのだ、と言っている。一度、自分の力で成功してしまうと、結局の所、最大の敵は自分自身ということになり、努力を怠けることが、あらゆることの失敗の原因なのだ、と結論付けてしまう。

 私は人間の努力を軽視するものではないが、人間において本当に大切な性質である、謙遜、慈悲、寛容といったものは、人間の努力によっては得られないものである。しかも、本当の努力とは真に楽しいものであり、神の存在を無視するならば、この世を如何様にして楽しむか、ということが、人生の本懐になるであろう。あらゆる競技や学問でも、本当に楽しんでいるものは、切磋琢磨し、能力を磨き、実力を持った人であろう。

 しかし、人生の目的が、このような技術の研磨にあるとは、どうにも思い難い。同情に満ち、慈愛に溢れ、寛容に人に接し、己の敵にすら、友好的な価値観を崩そうとしないこと、これらのことが人間に求められることであり、その究極系が神の掟であり、自分の道徳律と、神の掟の合一ということが、本来の人生の目的だと言えるのである。

 このような人格の研磨は、長く続く持続的な厳しい試練によってでしか育まれない。だから、本当に幸福な人とは、卓越した技術を持つ人ではなく、重く辛い試練を耐えきり、慈愛と同情と寛容を知った、忍耐の人なのである。そのような人は、この世においては貧しい人かもしれないが、その人に関わる人に喜びと祝福を与え、その人を中心にして、平和を作ることが出来る人なのである。そのような人を、神が自分の道具として用いるか、どうかは神のみぞ知るである。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回のテーマは、所謂、成功者と呼ばれる人が果たして幸福なのか、ということでもありました。富や名声を得ても、心の虚しさからは逃れられず、麻薬に逃避する有名人も数多くいます。お金を稼いでも稼いでも満足することが出来ない人もいます。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕が訴えたいことは、人間の努力によって幸せになれる人は十人の中に一人だけ(恐らく、その一人も、成功しているだけで幸せではない)ということと、もっと簡単に誰でも幸福になれる道が、この世には開かれている、ということです。今回のテーマは僕にとって、重い課題でした。もっと経験を積み、また、このことについて触れたいと思っています。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。