イグチナオ・デ・ロウラの自叙伝を読んでいる時に、改めて思い知らされた。というのは、アッシジのフランシスコの小さき花の中でも見受けられるが、聖人と呼ばれる人は、人から侮蔑されることを恐れない、それどころか、むしろ喜んでいる、ということだ。また、苦しみをも厭わない。改悛のために苦行をすることさえある。(後で苦行自体を否定することも多いが)

 非常に大きな苦しみを委ねられた時に(ヒルティは苦しみは真に委ねられるものである、と言っている)、世を儚んだが、この本を読んだおかげで、その苦しみこそが神の祝福なのだと気付かされた。また、重い病気の後遺症で、寝たきりの生活になった身内の悲しみの涙が、あまりにも美しいとすら思った。自分の無力さを感じるあまりに、ただただ祈る姿に心を打たれた。

 本当に大切なことは言葉には出来ないのだろう、と思った。キリストに倣うということは受苦なのだと改めて思い知らされた。この本は、聖人と呼ばれた人達は、なぜ、聖人と呼ばれたのかを深く考えてみる、いい機会になった。ヒルティは人生の秘訣は苦しみを喜ぶことだと、簡単に言っているが、それは宗教的に極めて高度な段階である、とも述べている。

 内村鑑三は人生の目的は神を知ることである、と述べたが、私は苦しみを通る度に神の感性に似てきていると感じる。そのことから分かったことは、神は人間の自由意志を、とても尊重する、ということだ。神は、これから自殺をしようとする人や、これから殺人をしようとする人も止めようとはしない。神なら止めることも出来るのにも関わらず。私は、もし、自分の子供が、お店の品物をいきなり、封を切って、食べ始めたら、多分、怒らないだろう。ああ、お腹が減ったのだな、としか思わない。私は、いい父親にはなれそうもない。人のやること為すことに、いちいち口を挟みたくない。正しくはないのかもしれないが、人のことを駄目だと言う人が本当は駄目なのだ。

 

 今回は日記なので、簡単に終わりたいと思います。いつもいいねをくれる人に感謝します。ありがとうございます。X(旧ツイッター)のような、つぶやきみたいな内容でしたが、また、やるかもしれません。今回は本の感想でしたが、その時は、また、よろしくお願いします。それでは、またお会いしましょう。お元気で。