私たちの生活には、不平不満が付き物です。なぜなら、神が、その人を損ねることのないように、溢れるような恵みを差し控えていることが多いからです。他人に正しい同情心を持ち、また、軽佻浮薄に陥らず、なおかつ、理性的に暮らそうとするのであれば、生活は楽であるよりも、困難である方が、上の三つの目的に沿うのです。なので、信仰者は無神論者に比べて、物質的な恵みは少ないと考えても、あながち間違いではないのです。神は公平であり、無神論者であっても、信仰者と同じように恵みをもたらします。前者は、それを自分の手柄だとし、後者は神の手柄と考えるだけです。

 しかし、今の世の中を眺めてみた時、人生の目的に到達し、若者の良い手本となった老人は、どれだけいるでしょうか。苦しみの時に、苦しみからの解放を望んだ時に、更なる苦しみが与えられる時、それは計り知れないほどの神の恩寵なのです。結局の所、人間は宗教によらずして成長する、ということが不可能な生き物なのです。現代人の病は苦しみが少なすぎることだと言っても過言ではありません。その人が老境を迎える時に一廉の人物になったという確かな確信が信仰者の特徴です。若さばかりを羨み、自分の老いを否定的に捉えること、それこそが本当の神からの罰でしょう。

 だから、現状に満足すること、もしくは足るを知る、ということが重要になってくるのです。なぜなら、信仰者の生活は苦しいものであり、また、楽しみということも少ないからです。筆者は不眠症に苦しめられており、これが無ければ夜の時間を多くの享楽の時間として用いることが出来たでしょうが、神はそれを許しませんでした。楽しみは無害なものであっても、多少、その人を弱くするものなのです。楽しみも少なく、苦しみの時に更なる苦しみが与えられたとしても、なお、それを不服とせず、むしろ、罪深い自分には、そのような取り扱いが相応しいと思うことは偉大な知恵です。

 筆者の少ない楽しみの中に、読書が含まれています。だから、勉強になるもの、精神の栄養になるような書物を読むようにしており、単なる娯楽に過ぎないものは控えるようにしています。私は楽しむという行為は否定はしませんが、それを過度に用いることは危ういことだと思っています。

 哲学は行いであり、思弁的なものは本来の哲学ではないと私は考えます。また、考えること、著作を編むということも、大きな享楽ですが、これは、あまり長持ちしません。しかも、極度に理性的な人は、常に自分を相手にする孤独を選びがちである。他人を相手にしていても、面白くないからです。他人と交際することは、何か自分を犠牲にするものであり、孤独で自分を相手にしている時よりも損だと捉えてしまうのです。

 しかし、人間は社会的な生き物であり、幸福は人間関係の中にしかない、といっても過言ではありません。筆者は、懇意にしている書店や喫茶店の店員さんとの小さな交わりの中に幸福を感じることが多いです。だから、楽しみは幸福ではなく、刹那的な享楽の連続という楽しみと幸福とは区別されるべきだと考えます。現代は娯楽がありふれていますから、楽しむことこそが幸福なのだと考えがちですが、私はそれには同意しません。

 そして、この世の最大の楽しみは伝道である。内村鑑三は伝道は快楽だと主張しています。神のことを考え、その神のことを述べ伝えることに大きな快楽を持った時、人は確かに成長したのです。食欲、睡眠欲、性欲に加えて、第四の欲求として伝道の快楽がありうる、と私は考えています。このような恩恵が与えられた時は、それを喜ぶべきであり、物質的な繁栄が少なかったとしても、現状を肯定し、貧しいながらも神と共に暮らす生活をすること、それこそが人が求めてやまない、人生の目的とは何か、というものに答えてくれるものではないかと考えます。

 

 最後に、いつも、いいねをくれるを皆様に感謝したいと思います。ありがとうございます。現状に満足するということを主題として挙げましたが、僕自身が自分の生活に満足しているかと問われれば、かなり怪しいものがあります。読書と思索の日々を続けていますが、これらのものが本当の満足を与えてくれるものなのかどうか疑問の残るところです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕は若い頃、考えごとしながら散歩する、ということが趣味でしたが、最近では、このような精神的な享楽も小さくなってきました。知性よりも心の親切さを大事にするようになってきました。前回も触れましたが、本文が読みにくいという場合は、この結びの言葉だけでも読んでいただけるとありがたいです。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。