我々は生きている間中、常に何かしらの悩みや憂いを持っている必要がある。ヒルティは何の悩みのない時など、内的人間にとって最も危ない時だとすら言っている。悩みや憂いの有用性は、その苦しみによって、内的人間は発達するということと共に、同じく悩み苦しむ同胞に対する同情の目が開かれ、また、その悩みや憂いから解放されることによって神に対する感謝が生まれることにある。

 しかし、この悩みや憂いの中で、自分には、もはや、どうすることも出来ないと絶望する時にも神は真に不思議な仕方で、その憂いから解放してくれるのである。悩みや憂いによって、神に寄り縋ることで、神に依存し、その悩みや憂いから解放されることで、神に対する感謝になるのである。こう考えると、神の存在を強く信じるためには悩みや憂いが絶対に必要であり、自分の力では、もはや、どうすることも出来ないという憂いの中にいる時、その時は、それを信じることは出来ないが、後になって考えてみると、その時が神の恵みを感ずる、またとない機会であり、その試練が与えられる時こそ、本当に喜ぶべき時なのである。

 憂いによって、神への信頼が揺らぐ時、それでも、なおかつ神に信頼するなら、神は、その憂いの一つ一つを丁寧に拭いさってくれるのであろう。その時、神に寄り縋る心の貧しい者は、幸いである、という御言葉の意味を、経験によって知ることが出来るであろう。

 もし、このような悩みや憂いが、全くなくなってしまったら、どうなるであろうか。その時は聖アウグスティヌスの言葉である、自己満足によって高慢になり、高ぶりに高ぶりが重なり、神をお払い箱にしてしまうだろう。そう考えると完全な順境など望んではならず、常に試練によって鍛えられてることの方が、内的人間にとっては、健康なことなのである。

 しかし、このような祈りにも、待つ、ということが大変重要になることがある。内村鑑三は起きて働くことよりも、この神命を待つことの方が難きことであると言っている。神は、その人に恵みを施そうと待っているのであり、神に対する義務として、この待つ、ということが最も大切で最も大変なことだと言えるのである。なぜなら、この待つ、ということは大変、忍耐の必要があることであり、未来は見えず、本当に救われるのかどうか、ということまで心配するからである。

 だから、全く憂いのない状態など、望んではならず、度々、憂いを与えられ、それから解放される、という経験を積むことが大切になるのである。その憂いの度に、神への信頼も揺らぐのであるが、この神に対する信頼も徐々にしか成長しない。ヒルティはこれを単純に勇気と呼んでおり、人間は、試練のことを全く恐れることのない勇気ある人物になることが出来る、と主張している。これは人生を通して学ぶ大仕事であり、如何なる試練も自分を害することは出来ない、という境地にまで鍛えられる時は、人間は、もう既に晩年になっていることであろう。(少なくとも私は、その境地には至ってはいない)

 こうして、悩みや憂いに散々、鍛えられることで、試練に悩む人の気持ちが本当に分かる人物となり、病気や怪我、深刻なまでの後遺症といった、人間が恐れる災害を、逆に人間性を高める有効な道具でさえあると主張出来、より高尚な人物へと成長させる励ましを行う人物になれるのである。聖書では、このような人を、慰めの子と呼んでいる。この称号こそ、人生の中で会得しなければならないものであり、何故、悩みや憂いが、この世にあるのか、ということの説明にもなるのである。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。言葉は違うものの、僕の主張と同じことを言っている牧師様のブログがあり、同じことを考える人がいて、嬉しい気持ちになりました。僕にとって恵みを待つ、ということは非常に大きな課題であり、現在進行形のものなのですが、いくら本の中で保証されていたとしても、自分で経験するまでは、やっぱり不安ですね。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、去年は身内に大きな不幸があり、重大な後遺症が残ってしまい、その人はもう一生、仕事が出来ない体になってしまいました。しかし、だからといって幸福になることは出来ないのか、というと、僕は、そうではない、と思うのです。その人は、そこに存在するだけで、周りに幸福を注ぐことの出来る、神にとって尊い器になったのだと思います。今は難しいと思うのですが、いつの日か、その障害を誇ることが出来る日が来ることを願っています。それでは、皆さん、またお会いしましょう。お元気で。

(ヒルティは幸福になるためには、仕事が絶対に必要であると主張していますが、金銭を稼ぐことだけが仕事ではないと思います。様々な障害で、一般的な意味での仕事が出来なくなったとしても、自分も病気を抱えながらも、人を励ます、ということも人間にとって大切な仕事だと思うのです)